花神社「茨木のり子全詩集」(2013年・2刷)より、「韓国現代詩選」(1990年・花神社・刊)の、最終、4回めの紹介をする。
 
同・(3)は、先の1月11日の記事にアップした。
 今回は、黄東奎(ファンドンギュ)の4編、呉圭原(オギュウォン)の4編、崔華國(チェファグク)の4編、いずれも詩集初出を読みおえた。
 黄東奎の「小型百済佛像」では、「彼らはどこへ行くのか/どこに そしてわれわれは?/あなたはほほえむ/微笑 劇薬瓶の指示文を読みとるように/私はあなたの微笑を覗きこむ」と、社会の暗い部分も見て来た小仏像の心を思い遣る。
 呉圭原の「突然 間違って生きているという思いが」では、「どうせ間違って生きたのなら ひきつづき間違って生きる方法も方法であるよと/悪魔のような夜がわたしをたぶらかす」と締めて、詩人らしからぬ、1部の人の生き方を示している。
 崔華國は在日50年にわたる(当時)詩人であるが、第1詩集はハングルで書かれた。「美しき仇(ウォンス)」では、韓国の気象情報のラジオを聴いて、「美しき仇 ソウルの娘っ子よ//波立つ一すじの海峡を越えて/凶悪な老虎の乾ききった狂気のさまに/…」と、鋭い懐郷の思いを述べる。
 前回で、選ぶ詩人、作品に偏りがあると書いたが、彼女の詩人紹介では「モダニズム」、僕にはシュールリアリズムと取れる作品も翻訳していて、前言を撤回する。シュールリアリズムは、産業社会の狂気を表わしている。
 ただしこの詩集の「あとがき」で訳者は、「独断や偏見を恐れずに、一九八〇年代の、それぞれタイプの異なる、自分の気に入った詩だけを集めてみたいと。…すぐれた詩人でも、…すれちがってしまったということも多いに違いない」と、率直に述べている。
焚き火2
「写真AC」より、焚き火の1枚。