風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

 このブログを運営している新サスケは、2017年10月17日付けでのAmazonのKindle本、第4詩集「詩集 日々のソネット」(縦書き)の発行に続き、第5詩集「改訂版 ソネット詩集 光る波」(縦書き)を、2018年5月31日、Kindleストアにて発行しました。著者名は、柴田哲夫(僕のペンネームの1つ)です。
 2011年10月1日・刊の紙本「ソネット詩集 光る波」に、数十ヶ所の加筆をし、編集しました。
 販売ページは、Amazonの「Kindleストア」カテゴリーで、「柴田哲夫 ソネット 光る波」と入力して検索してくだされば、即で見つけられます。右サイドバーのバナーよりも着けます。
 kindle版で540円(税込み)、kindle unlimited版も発行しています。

2017年07月

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 6月18日の記事で到着を報せた、綜合歌誌「歌壇」(本阿弥書店)2017年7月号を、ほぼ読み了える。
 巻頭の佐佐木幸綱「一九六六年」は、意外だった。大家が花舞台で、51年も昔の小さな事を、回想する歌を発表するしかなかった事に、かえって時代性を覗くよりないのか。
 平岡直子「スカートのそとの刺青」30首では、「つまさきを乗せれば沈む蓮の葉をあやうく渡りきったけれども」と、ある危機を渡りきった経験を詠んでいる。
 特集「介護の歌から見えてくる家族の姿」では、久々湊盈子「介護が生む兄弟間の軋轢」に救いを感じた。二人住まいの僕たち夫婦も、介護に入る日を想定せねばならない。
 篠弘「戦争と歌人たち」第四〇回では、学徒出陣を詠んだ歌から、取り上げている。
 「インタビュー 橋本喜典さんに聞く」(聞き手 柳宣弘)は第1回「軍国少年だったころ(戦前)、窪田章一郎先生との出会い」であり、戦後すぐに「まひる野」に入会するまでを、述べている



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 先の6月25日(日曜日)午前に、西武デパート某店内の眼鏡屋さんで検査・注文した眼鏡を、昨日7月2日(日曜日)に受け取って来ました。6年間使った眼鏡のレンズに傷が多くなったためです。
 写真の右側の手前から奥へ、新眼鏡、眼鏡拭き、ケースです。
 左側は手前がこれまで使った眼鏡、奥がPC眼鏡です。
 レンズは遠近両用、傷つきにくい、UVカットのコーティングをしてあります。
 両眼に軽い乱視がありますが、レンズに入れると、目が回るような経験をした事があるので、乱視補正は入れてありません。
 枠は、フレームレスを選びました。枠のきつさのない、ちょいワル爺さん風を狙ったものです。
 しかしその後、妻の直腸癌が手術結果、予測より悪い状態(進行性、ステージ3a、抗癌剤治療・要)とわかって、そのような風をしている事態でなく、気持ちにややそぐいません。
 代金は、13万8千余円の所、3万円引きの券があったので、10万8千余円を、初回に支払いました。もちろん、僕の小遣い財政では賄えなく、妻の財布より出してもらいました。


 角川書店「生方たつゑ全歌集」(1987年・再版)より、最後の第19歌集「漂泊の海」を読み了える。
 先行する
歌集「野分のやうに」は、先の6月28日の記事にアップした。
 この全歌集は、生前版なので、この後も歌集があり、現に1985年・刊の「冬の虹」を、僕は某古書店に注文している。
 「漂泊の海」は、1979年、短歌新聞社・刊。
 彼女の歌の功績に、抽象語・観念語の導入を前回は挙げたけれど、彼女は豊かな比喩を用い、象徴の域に達した歌がある。
 文学者を含めての周囲の応援と、自身のたゆみない努力の成果だろう。家庭的には、恵まれない面があったかも知れない。
 以下に7首を引く。
防風の痩せて貼りつきし砂原をふみつつ甦るわれの少女期
遭難碑海にむかひてたつ岬死の風景は明るすぎむか
弱音など吐かねど死(しに)は切なしよ君の遺品を分ちつつゐて
たましひに孤独ありやと思ひゐていたくはかなし生きゐる吾は
人を待つための春衣飾られし街あゆみきて雪のふる喪か
朝市のたちゐる中に売られゐる巻貝があり海藻があり
妬まれてゐるほどもなし馬鈴薯の芽をもげり微量の毒に魅(ひ)かれて
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写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。



 

 昨日(6月30日、金曜日)にメンバー3人が、朝9時半に喫茶店の1隅に集まって、短歌研究会B第16回を持った。
 
同・第15回は、先の6月4日の記事にアップした。
 短歌研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 前回に続き、歌集「晩夏」の「白梅紅梅」の章の、4首目から(81ページ)。
 「屈竭(くつかつ)のこころ放ちて仰ぐらく」という上句の「屈竭」がわからない。「竭」の字は漢和辞典で探せるが、意味がよくわからなく、「渇に通じる」だろうか。思いが渇き屈している意か。
 「梅の園尽きむとしつつ草の上(へ)に羞ぢらふごとく白(しろ)散りて来つ」の「羞ぢらふごとく」の比喩は、白い小さい清楚な花の散りようを指すだろう。
 「うつうつと汗ばむ吾が身」という上句の「うつうつと」は、「うとうとと」の意味である。
 「昨夜(よべ)ふかく酒に乱れて帰りこしわれに喚(わめ)きし妻は何者」は、奥さんの英子さんが夫の深酒に喚いた事はない、と証言しており、宮柊二も「詩的真実」と認めていたらしい。
 「おもおもと空の曇りの退(ひ)きし門(かど)向日葵に夕べあきつ集る」の初句の「おもおもと」は辞典になかったが、「重々しく」の意で、「退きし」に掛かるのだろう。
 上句が「雨ののちのぼれる月の照れれども」の「照れれども」の後の「れ」は、完了の助動詞「り」の已然形である。
 1時間が過ぎた10時半頃、Mさんが僕の腰痛の具合を訊いてくれ、切り上げる事にした。貸し借りの本を返し、Tさんが先輩の歌集を、Mさんが収穫したたくさんの李を、僕に下さった。僕はタブレットより、最近の花の写真と、Amazon Kindleに収めた歌集を、説明した。
 次の会の日程を決め、10時45分頃に散会した。
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写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。


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