風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

 思潮社の現代詩文庫78「辻征夫詩集」より、未刊詩篇と短篇1篇を読み了える。
 先行する詩集「落日」については、先の1月27日の記事にアップした。



 「未刊詩篇」には、1964年~1982年の14編を収める。辻征夫(つじ・ゆきお、1939年~2000)が、二十歳頃に詩を書けなくなって、そのあと20代後半から、ぽつぽつ詩を書けるようになったという時代の作品だろうか。寡作である。
 「訪問」の、イデアに生きるんだと言いながら、明るい家と若く美しい奥さんを持つ、友人が引っ掛かる。辻征夫は、詩に生きる決意をしたのだろう。生活よりも芸術を捕る、といった。空想性は少なくなって、現実の浸食した作品が多いけれども。
 短篇「騎兵隊とインディアン」の良さは、僕にわからない。友人のボロ車で海へ行き、帰りがけに恥をかいた、落語のような落ちである。
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写真ACより、「ドリンク」のイラスト1枚。


 

 県内を中心とした詩誌「水脈」の、69号を読む。
 贈呈の到着は、今月25日の記事、届いた3冊を紹介する(10)にアップした。

 リンクには、同68号の感想へ、リンクを貼ってある。

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 詩では、N・としこさんの「掃く」に惹かれた。庭の落葉掃きの生活詩なのだけれど、4章は起承転結を成し、第3章では人生の感慨が述べられる。
 A・比佐恵さんの「栗を拾う」では、「…廃道の/どん詰まりに/三本の山栗の木がある」と始まって、一人の栗拾いが楽しげである。思いは広がってゆく。
 かつての代表の、I・信夫さんの名前がなく、心配である。

 毎号、小説を載せている、N・えりさんの特集(小説3編、同人の感想エッセイ9編)がある。僕は詩誌の小説が、正道と思えなく、読んで来なかった。
 またもう1つの特集に、「葵直喜さんを偲んで」6編がある。僕とは触れ合いが少なく、ほとんど読まなかった。「読み部」の自称がすたる、と反省した。



 

 思潮社の現代詩文庫78「辻征夫詩集」より、第4詩集「落日」全篇を読み了える。
 先行する詩集「隅田川まで」は、今月8日の記事にアップした。


 「落日」には、16編の作品を収める。
 表題作の「落日ー対話篇」では、恋の成就が描かれるようだ。しかし家庭を持ち、子供が生まれると、詩人は現実に目覚める。
 「子守唄の成立」では、冒頭「お部屋の中が/暗いからといってそんなに泣かれると困ってしまう」と幼児をあやしかねる。
 「鳩」ではカメラを買えなくて、現実逃避する。
 「睡眠」では、「くらしが/夢のように/なってから/夢はほとんど/みなくなった」と、現実感のない生活を描く。
 「童話の勉強」には、詩作では生活できない現実が、突き詰められる。
 「ライオン」では、「歩き疲れてお酒をのんで/駅前広場で途方に暮れてる/いまのぼくがかなしくなって/思わずライオンのあたまをかかえて/泣いてしまった」と、生活無能力ぶりを表す。
 しかし掉尾のもう1編の表題作「落日ーおはなし篇」では、「せなかに/燃えるおひさまを/もってるおとこは」と、詩人の自恃に生きようとする。
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写真ACより、「ウィンターアイコン」の1枚。


 思潮社の現代詩文庫78「辻征夫詩集」より、「隅田川まで」を読む。
 初めの「学校の思い出」「今は吟遊詩人」の感想は、先の12月29日の記事にアップした。
 

 「隅田川まで」の原著は、1977年、思潮社・刊。 
 彼の抒情詩には異質さがある。現実的論理を離れて、異世界の深くへ届く。
 想像というより、空想の軽さがある。詩情を脅かす現実が深みを与える。
 しかし異世界への参入の仕方は「アルコールの雨」、宿酔の力ではないだろうか。萩原朔太郎が「独自で日本のシュールリアリズムを創り上げた」と言われても、僕はアルコール依存の幻覚ではないかと疑っている。
 戦後詩の田村隆一は酒好きな詩人だったが、彼は深く病んでいた。

 「魚・爆弾・その他のプラン」の第2章より引いてみる。「夕陽を小型の爆弾となす/呪文を発見し 任意の/場所に落としてみる…」。
 辻征夫の詩は、賭ける深さに抜きん出ていたのだろう。しかし、生命と生活を保障した世界へ移ったのだろう。現代詩文庫には、「続 同」「続々 同」がある。
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写真ACより、「ウィンターアイコン」の1枚。




 



 思潮社・現代詩文庫78「辻征夫詩集」より、「学校の思い出」から、と「今は吟遊詩人」を読み了える。
 同・文庫の購入は、今年8月18日の記事、3冊を買う、にアップした。


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 現代詩文庫78「辻征夫詩集」は、1982年第1刷、2000年6刷。第1詩集抄出と、完本詩集3冊、未刊詩篇を収める。
 辻征夫(つじ・ゆきお)は、1939年・生、2000年・没。

 今回は、「学校の思い出」抄(2編)と「今は吟遊詩人」を読む。
 僕は自称・詩人が苦手だ。僕は「詩を書く人」として、詩を書いて来た。「人の心を最もわからない者が詩人になる」という言葉がある。自分の心を最も知る詩人かもしれないが、中っているようだ。他人を気遣う人でありたい。

 これらの初期詩編は繊細で美しい。しかし詩は美しければ良いものではない。僕ははじめ、エモーションの強さと、うねり(音楽性。クラシックはほとんど知らなかったが)と思っていた。吉本隆明の「言語にとって美とは何か」は画期的論考だが、僕は題名に違和感を持った。文学に美が至高とは思えなかったからだ。

 辻征夫は、ランボーの高さ、リルケの深さに至らない、と苦しんだという。彼は後に、ライトヴァースと呼ばれた。俳句も吟じ、日本的な軽みの境地だろうか。後年、彼は数々の詩賞を受賞した。






 筑摩書房の「ウンガレッティ全詩集」(河島英昭・訳、1988年・刊)より、詩集「散逸詩篇」を読み了える。
 先行する詩集「最後の日々」は、先の11月27日日の記事にアップした。




ウンガレッティ全詩集
 全詩集の函の表を再掲する。

 「散逸詩篇」は、1915年~1927年までに書かれながら、当時(1945年)までに詩集未収録の詩編を、デ・ロベルティスが纏め解説・異稿を付して、モンダドーリ社から刊行された。イタリアで最初の詩を発表してから、従軍、除隊、公務に就き、結婚、37歳に至るまでの小詩集(全詩集で25ページ)である。

 出身地・エジプトや若年時代の回想、レトリックを用い始めた習作詩編などである。年代と執筆場所を付記した詩も多い。

 このあと22ページに渉って晩年の詩論「詩の必要」が収められるが、自己弁護を出ないようなので、精読をしない。この後は訳注・年譜・解説である。これで全詩集1冊の仕舞いとしたい。


 渡辺本爾さんの詩集「時間の船に浮かぶ」を読み了える。
 受贈の時のことは、今月10日の記事にアップした。




時間の船に浮かぶ
 2020年11月21日、能登印刷出版部・刊。*印に仕切られた3章に31編を収める。
 彼は長く教職にあり、8年間、市の教育長を務めた。また県詩人懇話会の初代・代表・岡崎純さんが身を引いたあと、人望を以って2代めの代表を長く務めている。
 題名に不審があり、「時間の(水面に)船を浮かべる」が、文法的には正しいかと思うが、詩に集中していない僕の僻目かとも思う。

 巻頭の詩「雪のおわり」に「旅立ってきたまちは/白い世界の果てにあり/二度ともどることはないだろう」のフレーズがあり、人生への覚悟を示す。また「行くぞ/としぜんに言葉がうまれ」には、僕が早朝に病理再検査のためS病院へ向かう時、何度も「行くぞ」と胸中に呟いて、元気を貰った。
 逝く際の母を描いて「二月抄」では、「母のいのちが舞いはじめ/ぼくらはその静かな/母の舞台を仰ぎ見ていた」と美しく昇華した。福井には、若くして母を亡くし、母恋を綴る故・広部英一さん、渡辺本爾さん、小鍛治徳夫さんの、詩人の系譜があるようだ。
 「言葉はあるか」では、「言葉を忘れることは/心を失うこと」と始まるが、言葉のないところに心が始まると、僕は考える。

 表題作「時間の船に浮かぶ」では、「立ちつくした父の時間は/既に失われて/同じところをどうどう巡りしている」と、認知症の老父を描く。
 「さむらいのように」の結末は、「腹の底からさむらいのように生きたいと思う」と締める。ルサンチマンの僕には、ない志である。

 「陶酔境」では、高山の湯に浸る設定で、「身にまとった日常を下界に捨てて/おのが骸骨を/今ごしごし洗っているところであるが」と自己浄化を描く。
 「うゐのおくやま けふこえて」では、「知らないところで/時代が動く鐘が鳴っていた」としても、まだ歩み続けようとする。

 平成30年間の31編と厳選であり、人生後半に入った豊かな果実である。




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