風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

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 「日本詩人会議」の県内詩誌「水脈」60号を読む。
 到着は先の6月17日の記事にアップした。


 リンクより、旧号の感想へ遡れる。


水脈70号
 30周年記念号であり、70号の節目でもある。前・代表のI・信夫さんの巻頭詩「胎動」より始まる。県詩人懇話会・代表の祝辞、招待詩3編と続く。
 会員の詩、歴史を辿る「水脈三〇周年を迎えて」4編、随筆4編、N・えりさんの小説2編、記録の「窓」3編へと繋がって行く。
 N・としこさんの回想に依ると、1991年1月30日、4人でスタート(全17ページ)したという。今は亡くなられた方を含めて、関わった人は多く、ページ数も70号で93ページに及ぶ。
 彼らは自分たちの主義主張が、なぜ世に容れられないか、考えるだろう。思想は生き方となり、思想の否定は生涯の否定となり、それこそ容れられないだろうが。
 メンバーは、不幸な幼少期から、現役時代は教師や小出版社社主、ある会社の取締役など、小市民として成功した人が多い。グループは、同好会を越え、外に発信するなら、今のグループ状態に安定してはいけないだろう。


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 岩波文庫のフィンランド叙事詩「カレワラ」(上)を読んでいる。これまでなぜアップしなかったかと言えば、「年刊句集 福井県」や「上林曉集」などが、途中で止まっているからである。それはネットに時間を取られ、圧倒的に読書時間が少ないからである。これから「カレワラ」の読書感想も上げて行こうと思う。


 叙事詩として、旧約聖書は挫折し、ホメロスものはギリシア神々の系統に恐れをなし、読まなかった。ゲルマン神話、北欧神話なども読んだ筈だが、ブログの記事に残っていない。
 ちくま学芸文庫で読んだ、「ギルガメシュ叙事詩」「シュメール神話集成」のみが、旧ブログ「サスケの本棚」に残っている。



 フィンランド叙事詩「カレワラ」(リョンロット・編、小泉保・訳)のこの翻訳は、1行が短く(1ページ2段組み)、5音7音の句を多用し、読みやすいことが特徴である。今第15章219ページまで読み了えた所である。
 天地創造にすぐ次ぎ、詩人・ワイナミョイネンの生誕が歌われる。詩、詩人の重視の表れだろう。詩人のライバルとしてヨウカイハイネンが現れるが歌比べに敗れる。ヨウカイハイネンはワイナミョイネンを弓矢で倒してしまう。
 若者レンミンカイネンは、求婚の課題の白鳥を得ようして、一旦死んでしまう。母親が鳥たちに神の蜜を得て来させ、それを塗ってレンミンカイネンを蘇らせる。レンミンカイネンは母の言葉に従い、故郷に帰る。ここで第15章の了いである。
 上巻だけで、注釈、解説を含めて497ページ、下巻に続く大冊なので、いつ読み了えられるかわからない。

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写真ACより、「建築」のアイコン1枚。




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 思潮社の現代詩文庫181「続続・辻征夫詩集」より、未刊詩篇15編を読み了える。
 先行する、詩集「萌えいづる若葉に対峙して」は、今月25日の記事にアップした。

 リンクより、関連過去記事へ遡り得る。

 未刊詩篇の内、新作は1996年~1999年の5編である。
 「蟻の涙 2」は、詩集「萌えいづる若葉に対峙して」の「蟻の涙」に対応する。「蟻の涙」では、「きみのなかに残っているにちがいない/ちいさな無垢をわたしは信ずる」とあった。「同 2」では、「このぼくのどこに/汚れていないもの/無垢があるというのか」と思いを反転させる。
 「穴の底」は、これも「萌えいづる若葉に対峙して」の第Ⅱ部、アリスやトム・ソーヤーら童話の主人公が中心の連作に、続く作品である。「オクスフォードの日暮れ」と同じ、明晰な墜落感を表す作もある。
 「おばさん思い」は、詩集「ボートを漕ぐおばさんの肖像」と同じく、胸内に住むおばさんへのオマージュの連作である。
 このように、仲間内でよく理解できる作品の発表は、卑しい(堕落だったか)と書いた詩人がいた。僕は既に読者仲間の身内なので、いささかの快さを感じた。
 初期未刊詩篇10編は、1957年~1971年に渉る。
 未刊詩篇が少ないのは、1編をよく練って、満足するまで仕上げる寡作だかろうか。僕は書き殴って、すべて同人詩誌に発表し、それから選んで(推敲し)詩集を纏めるのだ。彼は僕より詩に真剣だったようだ。

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写真ACより、「建築」のアイコン1枚。



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 思潮社の現代詩文庫181「続続・辻征夫詩集」より、詩集「萌えいづる若葉に対峙して」を読み了える。
 先行する、詩集補遺5冊分を読む、は今月16日の記事にアップした。


 「萌えいづる若葉に対峙して」は、生前最後の詩集である。「対峙」は広辞苑第7版・電子辞書版によると、「向き合って立つこと」となる。この詩集は全編が収められているが、優れた詩集であり、また最後の現代詩文庫・収録であり、カットする必要がなかったのだろう。
 第Ⅰ部の表題作「萌えいづる若葉に対峙して」は、林の若葉に窓内より対峙し、詩人は昨日に自転車でコンクリートに落下し、顔や足にけがをしながらも、ボールペンを握って白紙に向かっている。末尾は「血まみれの抒情詩人がここにいて/抒情詩人はみんな血まみれえと/ほがらかに歌っているのです」と、詩人の悲惨と栄光を歌うようだ。
 「おじさん狩り」「チェーホフ詩篇」は、複数の小詩を集めた、連作仕様である。詩人が傾いていた、小説執筆を思わせる。
 「玉虫」は散文詩で、出征した父が帰還して、母と出会う感動的な場面を描く。彼の詩の理解に、一助となるだろう。
 「風の名前」は、部屋を通り抜ける風に名前を付けて、会話している。病む老抒情詩人らしい。「薬缶」は、優しいが故に頼りない人たち(自分を含めて)のストーリーである。
 「蟻の涙」では、詩人は「きみのなかに残っているにちがいない/ちいさな無垢をわたしは信ずる」と訴えてやまない。
 「東武伊勢崎線」は、出会った知日派外国人を、地名を連ねながら描いている。
 第Ⅱ部では、「アリス」「トム・ソーヤー」「ロビンソン・クルーソー」など、童話の主人公を中心とする、10編である。第Ⅲ部は、散文詩「ワイキキのシューティングクラブ」で銃の実弾射撃(試し撃ち)の経験を描く1編のみである。内心に武闘派的な所のある詩人が、念願の1つを果たしたのだろう。
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写真ACより、「建築」のアイコン1枚。




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 思潮社の現代詩文庫181「続続・辻征夫詩集」を読み始める。
 到着は今年3月20日の記事、「届いた3冊を紹介する(11)」で報せた。


 また先行する「続・辻征夫詩集」のしまいの記事は、先の5月28日にアップした。



 「続続・辻征夫詩集」は、2006年・刊。辻征夫の没した2000年より、6年後である。2003年には、書肆山田より「辻征夫詩集成」が刊行されており、それに対抗するためにも、また現代詩文庫で締めるためにも、「続続・同」は必要だったのだろう。
 「続続・同」の冒頭は、これまで現代詩文庫の抄出で、除かれていた作品である。当時の編集者には考えがあったのだろうし、詩人も納得していたのだろう。それが没後、全詩集に対抗するためにも、拾い上げるのは忸怩たる思いがあっただろう。ばらばらではあるけれど、現代詩文庫3冊で、散文を1部含め、全集をまとめた事は、晴れがましいだろう。

 「続続・同」の冒頭は、現代詩文庫で5詩集から漏れた作品を集める。
 「天使・蝶・白い雲などいくつかの瞑想」からでは、「むらさきの蝶」で「酒に依存し  酒に夢を/つむぎながら」と告白する。
 詩集「かぜのひきかた」の「アルバムの余白に」では、「ぼく 依然として/六年B組の/あの/ぼくです」と締める。大学を卒業するに至っても転向せず、少年少女のまま、成年とならない人が僅かにいると聞く。辻征夫も、稀なその1人なののだろう。「続・同」の詩集「鶯」より表題作「鶯」に現れる10歳に成ろうかという女の子は、敗戦革命を乗り越えられず、成年とならなかった女性(あるいは詩人)の内心のようだ。
 詩集「ボートを漕ぐおばさんの肖像」からでは、詩人の胸に住む優しいおばさんを巡って、縷々と語る。「ぼくにはまだ会ったことのない/不思議なおばさんがいて/いつもぼくの脳細胞の暗闇で/優しく呟いてくれるのだが」。

ホワイトサウンド
「ゆりの里公園」から、「ホワイトサウンド」の1枚。




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 T・篤朗さんが贈ってくださった、同人詩誌「果実」84号を読み了える。
 到着は、今月17日の記事にアップした。


 先行する同・83号の感想は、昨年11月9日の記事にアップした。

 リンクより、旧号の感想へ遡り得る。

「果実」84号
 84号は、60周年記念号である。まずは詩誌の長命を寿ぐ。県内の詩誌として、先日の福井新聞で大きく取り上げられた。同人詩誌「木立ち」の代表だった故・広部英一さんは、同人誌が長く続けば良いものではない、と強く仰っていたけれども。

 「果実」84号には、9名10編の詩と、巻頭言を含め10名12編の記念号の感慨が載る。
 K・不二夫さんの「空虚を抱きしめる」では、「眼光の鋭さが失われ/顔に浮かぶしわが増えている」、また「伴侶が傍らにいないとなると/…」と、妻の居ない生活で、「切に心の底から淋しい」と老境を綴る。
 F・則行さんの「結婚」では結婚の実相の機微を描いて、機知がある。
 O・雅彦さんは、東京在住の詩人だけれども、「ゆき」を「ゆきの時間が/うつくしく/流れている」と、福井県を何度も訪れてのイメージで締めている。
 T・篤朗さんの「竹田の絵が手に入った」は、無名画家の秀作に誰かが竹田の偽名を入れた偽物と知りながら、無名画家の境地を楽しんでいる。
 同・83号の感想が同人のお目に入ったか(T・篤朗さんはこのブログを読んでくださり、声を掛けてくださる)、84号の詩は正当である。
 散文は、「果実の会」内外に向けての寿ぎであり、論ずる事はない。





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 先の4月28日に受け取りを報告した、同人詩誌「青魚」No.94を、ほぼ読み了える。

 リンクより、旧号の感想へ遡り得る。

「青魚」No.94
 僕やT・幸男さんには、詩を書き続けて来た悲しみ(有名になれなかった事を含めて)がある。
 それにして、年齢的には先輩のM・幸雄さんの「夜のカフェ・テラス」には、迫力がある。ゴッホの同題の絵の感想だが、その描き方の特色を、縷々述べていて、感動の様が伝わる。
 僕のソネットは、短歌に似て、連の割れ方跨り方の違和感、ボケぶり、老いてのネットのミスを描くばかりである。
 T・幸男さんの「腐葉土」「款冬花」「東盛庵」の3編は、老いての(居残り鴨)の心境を表す。
 年を重ねてから詩作を始めた同人がいる。少年少女の詩も、成年の詩とは乖離があると考える。老年で初めても、園芸や手芸と違うから、詩作を軽く考えないでほしい。生活の孫や家事や庭を、ただ描いてもそれだけである。事実とは違う真実(平穏の裏の悲しみ、など)を、むしろ事実と真実の間を潜り抜ける(いわゆる虚実皮膜論とも違う)境地を、僕も目指したい。
 巻末の2編の長文は、回想と自己弁護に思われる。





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