風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

 花神社「茨木のり子全詩集」(2013年2刷)より、「『スクラップブック』から」の3回め、最終の紹介をする。
 同(2)は、今月6日の
記事(←リンクしてあり)にアップしたので、参照されたい。
 今回、僕が読んだのは、1969年「旅」に寄せた「舟遊び」から、発表年・紙誌・不明の「ふるさと二つ」に至る、30編である。
 「会話」の始まりは、「話の歯車が かっちり噛み合って進み/何時間も倦まぬことがある/さっぱり噛み合わず/いら いら いらのこともあり/二人の歯車が がたぴし食い違うのに/へんだなァ 愉快! 愉快! のときもあり/批判のやいばで刺しちがえても/悔いなしという場合もある」と続く。僕も言い合いになった場合、お互いアップしたステージに立てるなら最高だし、刺し違えても回復する手立てはある。どうしようもないのは、嘘をついたり噂を拡げる場合である。
 「祭りは」は、祖母の男言葉での呟きで始まり、「祖母が逝って 時すぎて/かの呟き いつしか私も口にする/うきうきしたことの はや過ぎたあと/そっくりの口調で <祭りは終ったぜ>」と締める。初出が1971年7月であり、どうしても退潮から内ゲバなどに移って行った、学生政治運動への暗指を思ってしまう。
 「別れ ―友竹辰さんに―」での終連は「逝ったひとびとはなぜか私のなかでとたんに若返る/病の影さえさっと拭いさられ/二〇代三〇代の若さに戻り 精気に満ちて/皮肉な顔でふりむく/<なにやてっての?>」と、病い、老いで亡くなる友人の面影を描く。
 これで彼女の創作した詩は終わる。稀に古い口調が出て来たり、彼女の中に古いものが残っていたのでは、と思われる他は、彼女は戦後に詩を始めて生き切った。
 このあと、彼女の翻訳した「韓国現代詩選」が続く。何回かに分けて、ここで紹介したい。
暖炉2
フリー素材サイト「Pixabay」より、暖炉の1枚。



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 昨日の記事で受贈を報せた2冊の内、エリザベス・グレイス・著、稲木信夫・訳「日本女性プロレタリア詩人中野鈴子」を読みおえる。
 2016年3月・刊。私家版。軽装版、57ページ。
 イギリス在住のオックスフォード大学院生(当時)、エリザベス・グレイスさんの修士論文(2009年)を、詩人であり中野鈴子・研究家の稲木信夫さんが邦訳した本である。訳文が生硬で、やや読みにくい。
 中野鈴子は中野重治の妹であり、戦前から戦後にかけて、プロレタリア詩人として活躍した。
 しかし蔵原惟人、アルチュセールら旧・左翼の理論家に批判的に取り上げようとしても、既に古過ぎる。
 茨木のり子・詩集「倚りかからず」(1999年・刊)の中の「倚りかからず」冒頭で「もはや/できあいの思想には寄りかかりたくない」と謳われた通りである。
 僕の読書のストライクゾーンは広い(これに就いては1度書きたい)が、僕の経歴から高く評価するだろうとこの本を下さったのなら、危険球のボールである。
 中産階級出身らしい、母性からの(中野鈴子は一人の子供も持たなかったが)、戦時下抵抗という視線は新しいけれども。


 

 花神社「茨木のり子全詩集」(2013年2刷)より、「『スクラップブック』から」の2回めの紹介をする。
 同(1)は、先の11月20日の
記事(←リンクしてあり)にアップした。
 これら拾遺詩編は、詩人のスクラップブック、残されたメモ帳、ノート類より網羅した、とこの全詩集を編集した宮崎さん(詩人の甥)は、「あとがき」で述べている。自選を通らなかった作品を載せた事も、「書いてしまったものは仕方ない」との彼女のかつての言葉に、「許諾を得た気がした」と述べている。
 今回、僕が読んだのは、1962年に北海道新聞に発表された「秋の日に」より、1969年に「いずみ」に発表された「通らなければ」に至る、43編である。
 「五月の風は」では、1年を耐えしのんで花咲く草木に対して、「ちり紙のように使いすてた/わたしの一日一日は/薫風のなかにひらひらあらわれ/みっともなく照れている」と結んだ。
 「つながり」では、「翻然悟って私は人間の弱味かくさぬ/(2字アキ)生きた言葉をこそと/おもいさだめて 幾とせ経ぬる/あなたたちの子であり孫であるわたくしに/それは思いのほかの/難事業であるのです」と結んで、亡き母・祖母に語りかけるとともに、1つの決意表明である。
 今回終いの「通らなければ」では、勇気りんりんの子が、人を愛して憶病になり、「通らなければならないトンネルならば/さまざまな怖れを十分に味わいつくして行こう/いつか ほんとうの/勇気凛凛になれるかしら/子供のときとは まるで違った」と前向きに結ぶ。
ミカン5
フリー素材サイト「Pixabay」より、蜜柑の1枚。



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 この11月20日の「2016ふくい詩祭」のおりに頂いた本より、金田久璋・詩集「賜物」を紹介する。
 2016年10月、土曜美術社出版販売・刊。第3詩集。
 まず装丁を褒めておこう。紙本出版の夕映えを見るように、帯とカバーが渋く立派である。
 初めの「サテュロス」での「おのずと」「とんと」、「前と後」での「いやサ」「もっとも」などの修飾語が煩わしく、作品の豊穣になっていない。簡潔文を主張するのではないが、省き得る語は、自戒を含めて、省きたい。
 「サテュロス」の結末で「そこはそこ/臨機応変ってこともある/北風と太陽を按配よく使い分け/そこそこ方便交え 世間と折り合いをつけて/人生ほどよくしたたかに/時には鼻息荒く/嘯(うそぶ)いて」の処世術が、あざとい。地位を登ろうとする者の、それだろう。ヒラのまま定年を迎えると判った僕のそれは、「慎重、忍耐、面従腹背」であった。職をリタイアすると、面従腹背はない。
 「背中を流す」は、風呂で夫が妻の背を流す、睦まじさを描いている。悪性腫瘍を疑われたが、生検の結果、手術を免れた安堵の夜に。
 「パントマイム」の「知っているのだ なによりも柵や網が監獄であることを」の1行は、「なによりも」の句に疑問が残るが、優秀である。僕にすれば、壁も、すべての人間関係も監獄である。ネットと文学に救済の機会を夢見ている。


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 1昨日(11月20日、第3日曜日)の「2016ふくい詩祭」のおり、知り合いの詩人たちから頂いた幾冊かの本から、今日は「天彦(あまびこ)」9号を紹介する。
 代表がK・久璋さんの「美浜詩の会」発行、2016年10月・刊。福井県美浜町・在住の詩人を、おもな会員とする。
 6名が6編の詩を寄せている。
 N・六さんの「孫の守り」では、二人の孫の世話を十分にできなくても、憲法9条を悩む事に、引け目は要らない。生活+詩+政治=3でなくとも、足して1であれば良い(歌人・加藤治郎さんのツイートを参照して)。
 K・久璋さんの「へしこ」では、へしこ(鰯等を塩辛い糠に漬けたもの)を焼いて食べる美味しさを、「都合六杯 うまいご飯が食べられる」と讃える。しかし末2行の「腹を空かせた餓鬼どもが/いさんで家へと帰ってくる」程、現代っ子にとって美味しいものではない。あるいは現代の民話か。
 2名が2編のエッセーを寄せているが、字が小さくて、老眼で視力の弱っている僕は、読む前に挑戦する気が失せる。諸事情はあるだろうが、散文でも字を大きくしてほしい。

 

 花神社「茨木のり子全詩集」(2013年2刷)を読み進み、「『スクラップブック』から」の、1回めの紹介をする。
 先行する「茨木のり子『歳月』(Ⅲ)」は、今月6日付けの
記事(←リンクしてあり)にアップした。
 この「『スクラップブック』から」は、紙誌に既発表ながら、どの詩集にも未収録の102編を、この全詩集を編集した宮崎さんが、周囲の協力を得て集め、編集した1群である。「全・詩集」で済まさず、「全詩・集」とした事は、編集者が責任を負って、評価されるだろう。
 今回は、1950年9月、詩誌「詩学」に初めて発表された詩「いさましい歌」から、1962年4月「記録映画」に発表された「M・Tに」まで、28編を読んだ。
 最初の「いさましい歌」第5連は、「手綱をにぎり/さあ行かうペガススのやうに/蒼穹のはての/あをいあをい透明の世界へ/わたしの髪は煙のやうになびき/お前のたてがみは時空の風を切つて飛ぶ」と、題名通り勇ましく、暗喩を追う戦後詩の色が濃い。
 「民衆」第6連は、「ああ/こののびやかな四肢に、/似合はぬ ふてた姿勢をすてて/ひまはりのやうに立つ日は/何時だらう!……」と、女性としての自立を願っている。
 「年賀状」の第7連、8連は、「むかしはたくさんの女たちが沈没した/女たちの魂と言葉はそこなわれて、死んだ//いまは多くの女たちが弾きかえし/いきのいい鯨や山鳥が傷をかくして/飛びはねる」と女性の反撃を賞めている。
ザクロ3
フリー素材サイト「Pixabay」より、柘榴の1枚。

41号
 昨日に続き、N・としこさんに贈られた同人詩誌、「角(つの)」第41号を紹介する。2016年10月・刊。
 巻頭の詩、Y・清吉さんの「早稲田」が優れている。反原発等の政治を離れ、リタイアした農民として、大地の豊穣を謳う。「…今年の新米は出回る 虫の声に送られ/不可思議である 田んぼの力 奇怪千万/百姓の己(うら)何をした なんもせなんだ/…」。
 K・久璋さんの「膕(ひかがみ)」では、「…/爾来五十年 その後どうなったものやら/今では丸く女房に納まっている/…//羽衣は返しはしない/とかくその日までは」と、妻への執着を語る。
 H・信和さんの「居酒屋で」は、「…居酒屋では/選ぶことを楽しめばいい//かみさんと僕には/それぞれの好みがあり/それが重なることも/たまにはある」と結んで、子供たちが独立し、夫婦二人の穏やかな関係を描く。
 Y・勝さんの映画論「続・僕の懐かしシネマ館 18 番外編3 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「雪の轍(わだち)」」は、3段6ページに渉って熱弁を振るう。トルコ映画の、監督と作品の素晴らしさは認めよう。ただし、原作のチェーホフの2編の内、「妻」は僕も読んでいて、富裕知識人の夫婦は、こんな事で諍うのかと呆れたのだった。
 詩12編、評論2編を、34ページに収める


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