風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

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 吟遊社「春山行夫詩集」(1990年・刊)より、第4詩集「花花」を読み了える。
 先行する詩集
「シルク&ミルク」は、先の5月27日の記事にアップした。
 詩集「花花」は、1935年、版画荘・刊。9章85編より、第1詩集「月の出る町」と重複する27編を除く58編を、この全詩集に収める。
 初期の詩と、「植物の断面」「シルク&ミルク」のモダニズムの成果から後退した、後の詩を混ぜて刊行したのなら、狡猾である。
 「途上」の「かさこそと水が鳴る 明日を待つ心に/(越方(こしかた)の希望(のぞみ)はかなしい!)//と、いろもましろな月 いざよへる水の上に澄む/(すつかり思ひも行ひも無駄であつた)/…」と、挫折と過去への哀惜を詠うようだ。
 「新月」では、「いま 積まれた清く暗い書物のかげに耳をすませ//そは暗き扉なり 眼をとく(’’)瞑ぢよ/あまたせはしき跫音は此方(こなた)に来るとも/煩累(わづらひ)のなかに眼をひらくことをやめよ」と、暗い時代を遣り過ごそうとしている。
 「新生の曙」では、「やるせなき哀愁を破る小さなる角が欲し/はるとともに新生の日はきたりてわがこころ萠えそめ/はるかなる曙の精気にうたれて東に対(た)つことをしたふ」の明るさは、心理的転向の証しだろうか。
 終編の「快楽」の末尾では、「ああ 私は兜虫のように/嗜眠のなかに青い薔薇のノスタルジアを夢みるのだ」と、甘い夢を詠っている。
 注:引用の中に、正字を新字に替えた所があります。
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写真ACより、フラワーアレンジメントの1枚。


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 吟遊社「春山行夫詩集」(1990年・刊)より、3番目の詩集「シルク&ミルク」を読み了える。
 2番目の詩集
「植物の断面」は、今月22日の記事にアップした。その詩集は、厚生閣の「現代の芸術と批評叢書」シリーズ(春山行夫・編集)の1冊であり、同叢書の詩集には、安西冬衛「軍艦茉莉」、北園克衛「白のアルバム」、北川冬彦「戦争」、吉田一穂「故園の書」がある。モダニズムの推進者として、春山行夫は編集力を振るった。「解題」の受け売りながら、当時の詩の状況を知るため、ここに付記した。
 「シルク&ミルク」の原著は、1932年(昭和7年)、ボン書店・刊。
 1932年には、「満州国」建国宣言が出され、5・15事件があり、評論ではプロレタリア文学と新興芸術派と共に、ファシズム文学が論じられている。
 この詩集では、やはり危機感が募ったか、「這入れない」「向かない」「消える」「かくれる」「小さい」等の否定語が多く、現実を否定したい気持ちのようだ。
 現実状況の否定の中に、プチブル・インテリゲンチャとして、庶民嫌悪の感情もあったようだ。例えば「納税督促人ト駐屯兵ト森林看守ト守銭奴ト/制動手ト脱疽患者ハ…」と続けた詩句がある。
 このあと詩集は、「花花」(1935年・刊)、「鳥類学」(1940年・刊)と続くが、戦後にはほとんど詩を書かず、詩集もないようだ。
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写真ACより、フラワーアレンジメントの1枚。


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 吟遊社「春山行夫詩集」(1990年・刊)より、2番目の詩集「植物の断面」を読み了える。
 最初の詩集
「月が出る町」は、今月13日の記事に紹介した。
 「植物の断面」は、1929年(昭和4年)、厚生閣・刊。
 序文で百田宗治が、春山行夫の詩論を多く引いて、短く論じている。その引用された言葉の1つに、「意味のない詩を書くことによつてポエジイの純粋は実験される。」がある。
 モダニズム詩集として、シュールリアリズム(超現実主義)、ダダイズム(反文明・反合理的な芸術運動)、オートマチズム(自動記述法)、カリグラム(文字をグラフィックに配置した詩)、映像主義(シネポエム)などの詩編を収める。
 モダニズムは狭義に、第1次世界大戦後、1920年代の前衛的動向を指す。
 言葉の無意味化の果て、こめられた幼げな感情は、ボキャブラリ的に中産階級の優越感と、形式的には崩壊への危機感のみのように、僕には思える。
 ヨーロッパでファシズムが興っており、日本共産党への弾圧も繰り返された時代だった。翌1930年には、愛国勤労党・結成、ナチス進出などがあり、戦争の足音が聞こえたのだろう。
 「白い少女」の語を、6段14行重ねた詩は、カリグラムだろう。
 モダニズム詩として、有名な1編がある。「* 白い遊歩場です/白い椅子です/白い香水です/白い猫です/白い靴下です/白い頚です/白い空です/白い雲です/そして逆立ちした/白いお嬢さんです/僕の Kodakです」。映像主義とウィットが、無意味からわずかに救っている。
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写真ACより、フラワーアレンジメントの1枚。


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 戦前からのモダニズム詩に関心があり、「安西冬衛全詩集」、「北園克衛全詩集」を求め得たが、「春山行夫全詩集」が古本界に見当たらなかった。かなり長い間探して、吟遊社「春山行夫詩集」(1990年・刊)がそれに当たると見定めて、購入した。帯にビニールカバー、表紙にパラフィン紙カバーが、古書店主の手によって掛けられている。
 春山行夫(はるやま・ゆきお、1902年~1994年)の米寿記念出版で、既刊詩集、未刊詩集、詩集未収録作品を収めているが、生前とはいえ「全詩集」と銘打たなかったのは、訳があるかも知れない。
 今回に僕が読んだのは、第1詩集「月の出る町」である。1924年、地上社出版部・刊。27編を収めるが、1935年に発行された詩集「花花」に再録された際、かなりの部分に改訂が加えられた。
 巻頭の「故郷」は4行の詩で、後半は「けふ故郷(ふるさと)は寺のやうに懐かしい/こころは侘びしく鍬のやうに重い」と比喩を用いながらの懐郷で始まる。
 「水上のtable」では、絹、香料、食卓、等の語が出て来て、今の僕たちなら入手可能かもしれないが、1924年(大正13年)にあっては、どんなにか上流社会にのみ有ったものだろう。
 また「白き寝顔」が「雨はれたり土耳古玉の空あらはれたり」と始まるように、古文調の作品も幾らか混じる。
 春山行夫は、この詩集を上梓した翌年(23歳)、名古屋市より上京している。


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 金田久璋さんより頂いた、第4詩集「鬼神村流伝(きじんそんるでん)」を読み了える。
 第3詩
「賜物」に就いては、、昨年11月23日の記事にアップした。
 「鬼神村流伝」は、2017年4月、思潮社・刊。詩人・倉橋健一の帯文と栞、4章42編の詩、後記「覚書」、略歴を収める。
 彼は有力な民俗学者でもあり、それを拠り処とした、フィクションの叙事詩として、成功している。
 とくに「柿の木問答」、「魔除け」には、詩誌に発表時から惹かれた。
 僕は短歌を拠り処とする、私的独白の詩(もう面従腹背が要らないので、傍白ではない)を創り続けており、彼と擦れ違う所もあるようだ。
 同時に島尾敏雄・ミホ論の抜き刷り(「脈」92号より)も頂いたが、ここにはアップしないでおく。


 

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 昨日と同じ、4月23日の福井県詩人懇話会・総会のおり、K・久璋さんに頂いた3冊の内、同人詩誌「角(つの)」第43号を紹介する。
 同・第42号はこのブログに欠けていて
同・41号の記事を昨年11月16日にアップした。
 第43号は、2017年4月10日・刊。11名11編の詩、6名6編の散文(評論、エッセイ)を収める。
 S・章人さんの「じゅげむ じゅげむ」では、
とめどなく紡ぎ出される 美しいコトバが
音声になり 中空に漂い
跡かたもなく消えていく

天女に化したコトバが 人びとを魅了する
両足を切り取られ 足が地につかず
うなだれて漂う ユウレイごときもいたりする
 と、おもにテレビ画面からの印象を描く。これも昨日の記事と同じ、言葉の空虚化を描くのだろう。
 N・六さんの「孫の守り(二)」の3歳の孫や、Y・清吉さんの「兄貴」の93歳で自然死した兄にしか、感動しないのは、上記の理由か、僕の感性の衰えか。
 Y・勝さんの映画論「続・僕の懐かしシネマ館 19 小津安二郎『秋刀魚の味』」は、3段6ページ(B5判)に渉る熱論であり、映画評論の歴史に参加するシリーズだろう。


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 4月23日の、福井県詩人懇話会・総会のおり、T・晃弘さんから僕も所属する同人詩誌「青魚」の、No.86を渡されて、先日にほぼ読み了えた。
 
同・No.85は、昨年11月11日の記事で、取り上げている。
 B5判、2段組み。今号は2017年4月22日・刊、38ページ。
 僕は8編のソネット(14行詩、韻は踏んでいない)を寄せており、もう1つのブログ「新サスケと短歌と詩」の、
4月25日の記事より毎日1編ずつアップしているので、ご覧いただきたい。
 今号で僕が最も惹かれたのは、K・和夫さんの「海辺の町で」である。途中からであり、また長くなるが、以下に引いてみたい。

言葉も思いも
希薄になってゆく

この空虚さはなんだろう
言葉がその意味を失くし
浮遊している

この街では
人々の息づかいが聞こえない

何とでも言える
大声で言えばいいんだ
そして

さめざめとした気配
この空虚さはなんだろう

 政治家の憲法解釈や、言いたい放題が、言葉の世界を、言葉の芸術の文学を、半意図的に空虚化しようとしている。言葉に拘るなら、今は文学の時代ではないのだろう。ただ人心に拘り、わずかに文学を続け得る時代だ。
 「青魚」には長文の評論が載って、詩誌を下支えしている。


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