風の庫

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 思潮社・現代詩文庫78「辻征夫詩集」より、「学校の思い出」から、と「今は吟遊詩人」を読み了える。
 同・文庫の購入は、今年8月18日の記事、3冊を買う、にアップした。


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 現代詩文庫78「辻征夫詩集」は、1982年第1刷、2000年6刷。第1詩集抄出と、完本詩集3冊、未刊詩篇を収める。
 辻征夫(つじ・ゆきお)は、1939年・生、2000年・没。

 今回は、「学校の思い出」抄(2編)と「今は吟遊詩人」を読む。
 僕は自称・詩人が苦手だ。僕は「詩を書く人」として、詩を書いて来た。「人の心を最もわからない者が詩人になる」という言葉がある。自分の心を最も知る詩人かもしれないが、中っているようだ。他人を気遣う人でありたい。

 これらの初期詩編は繊細で美しい。しかし詩は美しければ良いものではない。僕ははじめ、エモーションの強さと、うねり(音楽性。クラシックはほとんど知らなかったが)と思っていた。吉本隆明の「言語にとって美とは何か」は画期的論考だが、僕は題名に違和感を持った。文学に美が至高とは思えなかったからだ。

 辻征夫は、ランボーの高さ、リルケの深さに至らない、と苦しんだという。彼は後に、ライトヴァースと呼ばれた。俳句も吟じ、日本的な軽みの境地だろうか。後年、彼は数々の詩賞を受賞した。






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 筑摩書房の「ウンガレッティ全詩集」(河島英昭・訳、1988年・刊)より、詩集「散逸詩篇」を読み了える。
 先行する詩集「最後の日々」は、先の11月27日日の記事にアップした。




ウンガレッティ全詩集
 全詩集の函の表を再掲する。

 「散逸詩篇」は、1915年~1927年までに書かれながら、当時(1945年)までに詩集未収録の詩編を、デ・ロベルティスが纏め解説・異稿を付して、モンダドーリ社から刊行された。イタリアで最初の詩を発表してから、従軍、除隊、公務に就き、結婚、37歳に至るまでの小詩集(全詩集で25ページ)である。

 出身地・エジプトや若年時代の回想、レトリックを用い始めた習作詩編などである。年代と執筆場所を付記した詩も多い。

 このあと22ページに渉って晩年の詩論「詩の必要」が収められるが、自己弁護を出ないようなので、精読をしない。この後は訳注・年譜・解説である。これで全詩集1冊の仕舞いとしたい。


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 渡辺本爾さんの詩集「時間の船に浮かぶ」を読み了える。
 受贈の時のことは、今月10日の記事にアップした。




時間の船に浮かぶ
 2020年11月21日、能登印刷出版部・刊。*印に仕切られた3章に31編を収める。
 彼は長く教職にあり、8年間、市の教育長を務めた。また県詩人懇話会の初代・代表・岡崎純さんが身を引いたあと、人望を以って2代めの代表を長く務めている。
 題名に不審があり、「時間の(水面に)船を浮かべる」が、文法的には正しいかと思うが、詩に集中していない僕の僻目かとも思う。

 巻頭の詩「雪のおわり」に「旅立ってきたまちは/白い世界の果てにあり/二度ともどることはないだろう」のフレーズがあり、人生への覚悟を示す。また「行くぞ/としぜんに言葉がうまれ」には、僕が早朝に病理再検査のためS病院へ向かう時、何度も「行くぞ」と胸中に呟いて、元気を貰った。
 逝く際の母を描いて「二月抄」では、「母のいのちが舞いはじめ/ぼくらはその静かな/母の舞台を仰ぎ見ていた」と美しく昇華した。福井には、若くして母を亡くし、母恋を綴る故・広部英一さん、渡辺本爾さん、小鍛治徳夫さんの、詩人の系譜があるようだ。
 「言葉はあるか」では、「言葉を忘れることは/心を失うこと」と始まるが、言葉のないところに心が始まると、僕は考える。

 表題作「時間の船に浮かぶ」では、「立ちつくした父の時間は/既に失われて/同じところをどうどう巡りしている」と、認知症の老父を描く。
 「さむらいのように」の結末は、「腹の底からさむらいのように生きたいと思う」と締める。ルサンチマンの僕には、ない志である。

 「陶酔境」では、高山の湯に浸る設定で、「身にまとった日常を下界に捨てて/おのが骸骨を/今ごしごし洗っているところであるが」と自己浄化を描く。
 「うゐのおくやま けふこえて」では、「知らないところで/時代が動く鐘が鳴っていた」としても、まだ歩み続けようとする。

 平成30年間の31編と厳選であり、人生後半に入った豊かな果実である。




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 筑摩書房の「ウンガレッティ全詩集」(河島英昭・訳、1988年・刊)より、詩集「最後の日々」(1919年)(フランス語詩篇)を読み了える。
 先行する「老人の手帳」の記事は、今月16日にアップした。


 「老人の手帳」は、年代順に最後の詩集であり、その後も亡くなるまで散発的に詩を発表したが、この全詩集には訳出されていない。

 「最後の日々」は初期フランス語詩集であり、フランスに留学(彼はエジプトから来たイタリア人である)後、1915年、第1次大戦に従軍し、塹壕の中で詩を書いた。
 「ギョーム・アポリネールに」以下数編では、青年詩人らしい感傷、ロマンチシズム、哀愁が読み取れる。「夏の夜」には、「花瓶と岩石とが砕けて火矢と火口に群れ飛ぶ/この暴虐に…」と戦闘を歌う。
 「黒の成就」は、シュールレアリスムの詩人、アンドレ・ブルトンに捧げられた。連作「ロマン・シネマ」6編は、エジプト時代の同級生で、パリの大学に共に通った親友、モハメッド・シェアブの自死を深く嘆いた作品である。
 このあとには「散逸詩篇」と、詩論「詩の必要」を収め、訳注・年譜・解説を付す。

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写真ACより、「秋の人物コレクション」のイラスト1枚。


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 筑摩書房の「ウンガレッティ全詩集」(河島英昭・訳、1988年・刊)より、第6詩集「老人の手帳」を読み了える。
 第5詩集「叫び声と風景」は、今月8日の記事にアップした。




 「老人の手帳」は、1960年、モンダドーリ社・刊。J・ポーラン・序、L・ピッチョーニ・編。(1950ー60年)と題に付されている。
 「約束の地を求めて最後のコロス」は、27編の連作である。「日々は虚しい煙に過ぎないと。」「すべてが廃墟にすぎないことを。」「希望をすり減らすもの、それは希望だ、」等、とても虚無的になっている。
 過去への追憶ばかりを想い、未来を想わない生活は、虚しいだろう。
 「言葉を失った小曲」(1957年10月、ローマ)は、2編より成る。
 掉尾に対の2章「二重唱」を収める。「もはや何一つ彼の心から動かせないのか、//もはや何一つ彼の心から/追憶の苦い驚愕のほかには/擦り切れた肉体のなかでは?」と結ばれ未来がない。直訳調か和文調か、翻訳詩の語順という、どちらが理解されやすいか、スタイルの問題も問われる。

 この後に、「最後の日々」(1919年)(フランス語詩篇)と、「散逸詩篇」(1915年~1927年、未収録)、詩論「詩の必要」を残す。

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写真ACより、「秋の人物コレクション」のイラスト1枚。


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 KIndle版「山之口貘全詩集 14篇併録」より、全詩集を読み了える。
 入手は、先の10月19日の記事にアップした。



山之口獏全詩集
 沖縄県出身の山之口貘(1903年~1963年)は、生涯に197編の詩を書いた。
 上京したが貧しく、借金を重ね、公園に寝泊まりしたり、汲み取り屋をしたりした。
 職業安定所に勤め、安定した時期もあった。
 貧困や欲求を描いたが、素直で1種の明るさがある。全詩集、選集、アンソロジー入集など数多い。
 思潮社より1975年~76年、4巻の全集が刊行された。また山之口貘賞が創設され、現在に至っている。





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 僕の所属する同人詩誌、「青魚」のNo.93を読み了える。
 入手は今月2日の記事にアップした。これでその時頂いた3冊すべてを紹介する事になる。


 同・No.92の感想は、今年5月15日の記事にアップした。リンクより、関連過去記事へ遡れる。


「青魚」No.93
 今号では、僕のソネット4編が、巻頭を飾った。代表のT兄は、4、5番めに置きたかったが、ページの関係で、とぼやいていた。

 T・幸男さんは、「カステンポな母の傍らで」2ページを寄せた。2段組の内、上段に詩を、下段に父母を含むモノクロ写真を収めた。散文詩風で、世間への憤りは少ないようだが、末尾の1行は次のようである。「ー沸騰スル人間
(ヒト)ノ未来ヲ俯瞰ながらに」。
 T・晃弘さんの「死亡保険」では、死亡保険の勧誘と年下の隣人の死を描いて痛切であり、断ったという結末はユーモラスでさえある。
 孫可愛いや日常のトリヴィアルを描いた詩は、困ると思う。
 散文では、T・育夫さんの「演歌」8ページ、A・雨子さんの「詩友、友人」7ページが長文である。詩人の書いた散文は、本性が現れると思われる。



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