風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

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 9月20日の記事、「頂いた本など9冊より(1)4冊」で紹介した内、初めの「中日詩人会会報 No.193」を読み了える。
概要
 2018年9月5日・刊。20ページ。
 綴じてないので、ホッチキスで留めておいた。これだけの事にも、美感と手間の問題があるのだろう。
感想
 中日詩祭(7月1日)の会長挨拶とH・敏彦氏の講演は、危ういな、と思う。中日新聞文化部長の挨拶が真っ当である。
 中日詩賞、同・新人賞の選考経過を読んで、受賞者と逃した詩人の、際どい淵を思う。新人賞は最後、2詩集より挙手で決め、4対3の僅差だった。でも芥川賞を受賞しても、消えて行った作家もいる(芥川賞全集がなぜか、蔵書に19巻まで揃っている)事ではある。



 Amazonの記録に拠ると、今月9日に、Kindleストアの無料詩歌より、高見順・詩集「死の淵より」を、タブレットにダウンロードしている。
 今月14日の記事で紹介した、
蔵原伸二郎・詩抄「岩魚」と同じ時期である。
 蔵原伸二郎と違って、僕は高見順・詩集「死の淵より」(拾遺詩抄を含む)を知っていた。高校生時代か青年期に、文庫本で読み、のちに別の文庫本を代行業者に頼み(「立原道造詩集」、堀口大学・訳のボードレール「悪の華」などの文庫本と共に)、電子書籍化し、CDに収めて楽しみ読んでいた。しかしある時にクラッシュしてしまった。
 その後、「立原道造詩集」、「死の淵より」、共に文庫本で買い直したが、kindle版「立原道造詩集」を買い、「高見順文学全集」全6巻(それら詩編を含む)を古本で買い、文庫本は処分した。
 しかし没後50年の年が明け、著作権が消滅したのだろう、高見順詩集がKindleストアで無料で出ると、タブレットでリラックスして読みたいと、ダウンロードした。この本は先の「岩魚」と違って、のちまで残したい。

 僕のソネット群は、彼の詩に習う所があったかと、ひそかに思っていた。しかし久しぶりに「死の淵より」と拾遺詩編をよむと、そのような事は無かった。食道癌で死を間近に感じている、暗い詩が多い。
 「青春の健在」、「黒板」などの少ない、明るげな詩が印象に残っていただけである。
 様々に印象の変わる、高見順の詩編だけれども、今後も読みつづけたい。

 高見順(たかみ・じゅん、1907年~1965年)は、福井県出身の作家であり、三国町の生家と墓地に、荒川洋治さんに連れて行って貰った事がある。その前に三国町に、高見順の詩碑が出来た時、第1回荒磯忌(ありそき)だったとも思うが、詩碑除幕式(川端康成、今日出海、参列)に参加したのだった。
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写真ACより、「ファンタジー」のイラスト1枚。




 先日、Kindleストアの無料詩歌欄を見ていると、蔵原伸二郎「岩魚」があったので、タブレットにダウンロードした。きれいな表紙はない。
 タブレットで開いてみると、「岩魚」、「鮭」、「すずめ」、「落日」、「西瓜畑」、「遠い友よ」、「石の思想」、7編の詩を収めるのみである。蔵原伸二郎に「岩魚」という詩集があるが、7編で全部ではないだろう。
 奥付けに拠ると、新学社「近代浪漫派文庫 29」(2005年・刊)を底本とした、青空文庫より作成されている。青空文庫で蔵原伸二郎を調べてみると、7つの章があり、複数の詩編を収める章がある。詩集「岩魚」との関連付けは判らない。
 その中の「岩魚」の章を、そのまま1冊として、Kindleストアで無料販売していた訳である。無料だから、不満を言う筋合いはない。
 蔵原伸二郎(くらはら・しんじろう、1899年~1965年)は、戦時中に国粋的な戦争詩を書き、戦後に指弾されたとされる。1964年、詩集「岩魚」を刊行し、読売文学賞を受賞した。
 メジャーでない詩人の詩集を読むのは、僕が見つけて好むからではない。今から半世紀前、高校文芸部で1年先輩だった荒川洋治さん(今は現代詩作家として令名高い)が、蔵原伸二郎の詩を好み、「蔵原伸二郎研究」という研究誌を出すから、批評を書くように僕が言われた、思い出があるからである。研究誌は結局、資料としての詩抄集(当時だから、彼が原紙を切った、わら半紙へのガリ版刷り)が出たのみだったように記憶する。
 その作品集で、当時の僕は「足跡」という短詩(題名を忘れていたが、詩人名と覚えていた単語でネット検索し、見付けられた)が好きだった。青空文庫の蔵原伸二郎の「足跡」の章(この詩1編のみを収める)で、読み得る。
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写真ACより、「ファンタジー」のイラスト1枚。



 思潮社「吉本隆明全詩集」(2003年2刷)より、「第Ⅳ部 初期詩篇」の「日時計篇 Ⅰ (1950)」の4回目の紹介をする。このブログ上で、11回目の紹介である。
 
同・(3)は、先の4月1日の記事にアップした。
概要
 今回は、1043ページ「<午後>」より、1072ページ「<わたしたちが葬ふときの歌>」に至る、24編を読み了えた。
 「日時計篇 Ⅰ」は、22編を残す。解題に拠れば、「日時計篇 Ⅰ (1950)」は、1950年8月頃から、1950年12月22日まで、148編が手製原稿に書かれた。「日時計篇 Ⅱ (1951)」が、1月3日より始まっており、年末・年始の休みが入る事がおかしい。
感想
 1950年といえば、僕の生まれた年である。吉本隆明は1924年生まれ、26歳頃の作品としても、昔の作である。それで古いか、新しいかは、別である。
 「<鎮魂歌>Ⅱ」では、末連2行「愛する者はすべて眠つてしまひ 憎しみはいつまでも覚醒してゐる/わたしはただその覚醒に形態を与へようと願ふのみだ」と、憎悪の哲学を閃かせている。
 旧かな遣いは、1種の異化で、詩編はフィクションになる。新かな遣いに直すと、然程でもない詩行もある。
 吉本隆明の思想も、社会主義、実存主義、構造主義と、流行を追うように移り、晩年は宗教論に至ってしまった。彼には必然性があったのだろうが、読者は納得していないのではないか。
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写真ACより、「ファンタジー」のイラスト1枚。




詩誌 青魚No.88
 今月6日の記事「歌集と詩誌が届く」で報せた内、後の方の同人詩誌「青魚」No.88を、ほぼ読み了える。
 同号の僕の詩、先号の感想などへ、上のリンクから飛べる。
 写真は同号の表紙で、表紙絵は同人の一人T・幸男さんの作である。表紙絵の費用は彼が負担していると、T・晃弘さんがかつて述べた。
概要
 2018年6月4日、鯖江詩の会・刊。B5判、2段組み(詩も散文も)、33ページ。
 同人の18名が、思い思いに詩・散文を綴っている。
感想
 巻頭は、K・和夫さんの「詩なんか書くんじゃなかった」で、標題の言葉が作品中にも3度繰り返し現れる。僕は今、短歌も書いてそちらに重きを置いている。でも高校生時代、荒川洋治さんに鍛えられて詩を始めて以来、「詩なんて書くんじゃなかった」とは、1度も思わない。「詩では救われない」と思った時期はあるけれど。
 T・幸男さんの「冬芽」以下5編(ペン書きを縮小して掲載)は、過去や100歳を迎える叔母を詠っている。しまいの「ゲシュテル歌曲(ソング)の中で」のみが、ラテン語(これまでギリシャ語だと思って来た)の哲学用語を交え、世を撃っている。老いの難路行であろう。
 T・吉弘さん「宗倉武二先生を悼む」、T・晃弘さん「三男坊」「ドン・キホーテ」はともに、回想から現在位置を確かめている。
 M・あずささんの「霧に煙って」は思索から詩情を紡いでいる。
 河村大典さんの散文と詩の、時代に抵抗する作品は、正論過ぎて賛同し得ない。
 高年大学受講生の方の詩も、それぞれ頑張っている。
 掉尾はA・雨子さんのレポート「則武三雄詩集『赤い髪』の編集を終えて」で、3ページに渉って、則武三雄・選詩集を自分の出版社から発行した、経緯を述べた。




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 今月28日の記事「届いた2冊(2)」で報せた内、詩誌「水脈」62号をほぼ読み了える。
 ある政治的背景を持っており、同人詩誌とは名乗っていない。
概要
 15名23編の詩、俳句同好会の11句、N・えりさんの小説「青山さんのこと」、随筆2編、通知報告欄・等がある。
 生活詩が多く、先の豪雪が多く歌われている。宗教色のある作品もある。
感想
 Y・知一郎さんの「“きだらいの”おばさん」は旧作らしいが、幼くより親しんだおばさんが、老いて亡くなり、偲ばれるに至る細部が重ねられ、しみじみとする作品である。
 M・祐子さんの「春の芽吹き」は、大雪との闘いを描いた末に、「雪で身体をきたえたばあさん/また長生きするかと深いため生き」とユーモラスに厭世的である。
 M・あき子さんの「くまバチ」は、「私の畑には/くまバチが一匹います」と始まり、「この春もスモモの花に来ました/私が来たねと言うと/夫はうんと言いました」と締め括って、自然と共生する穏やかさを表わす。
 N・としこさんの散文詩「クローバの・・・・・」は、幼馴染みだった「えいちゃん」との交流とその後、自分が四歳の時に出征し亡くなった父への思いを交えて、転変する生を抒情した1編である。


「角」第46号
 昨日の記事「入手した6冊」の内、同人詩誌「角(つの)」第46号を、詩作品中心に読み了える。
 
同・45号については、今年1月26日の記事にアップした。
概要
 B5判、52ページ。
 14名15編の詩、7名7編の散文(エッセイから研究まで)を収める。
 前回の苦言が届いたのか、関わりないのか、読み足りる詩編が多い。
感想
 N・としこさんの「草笛」は、澄んだ心境に、個人か時代かの悲鳴を幻聴するようだ。
 H・信和さんの「本を借りる」は、教師の経験から、子供たちの盛んな読書熱を描いている。
 K・久璋さんの「鳴き砂」は、原発に、鳴き砂も、花・木・虫けら・獣も、悪鬼・夜叉も嘆き哭くと訴える。
 T・尚計さんの「決断」は、僕にもある怠けと、豪雪からの決断を描いて、あるあるの物語である。
引用
 新参加のO・雅彦さん(都内・在住。詩誌「果実」にも参加)の、「いきるほしをみながら」は、未来に個人にも社会にも、穏やかな充実した時代が来る事を希求するようである。
 全6連の内、最終連4行を引く。

わたしはじんせいが
いつかゆたかなうみに
つうじるのか
かんがえている





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