風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

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 今月20日の記事、「詩集と同人歌誌」で入手を報せた内、赤木比佐江・詩集「一枚の葉」を読み了える。
 読み了えた単行本詩集を検索すると、歌詞集、アンソロジー詩集を除き、昨年10月11日の記事、
前川幸雄・詩集「弐楽半のうた」以来である。
概要
 2017年6月25日、コールサック社・刊。127ページ。
 3章34編の詩、佐相憲一・解説、あとがき、略歴を収める。
感想
 亡き前夫をうたった「初雪に」が幻想的な雪降りから入って、人の死のリアルに至っている。「世の中の不合理が許せなくて人の前に立った」とあるけれども、埴谷雄高「不合理ゆえに吾信ず」の逆説の言葉もある。
 「手を振る父」では、自身が18歳で都会に出る時、心からの言葉も掛けなかったが、農業者そのものであった父を、懐かしく偲んでいる。
 修羅場にも遭っただろうが、再婚して今は福井の田園地帯で暮らし、都会で身に付いたものを、洗い落としているようだ。


 思潮社「吉本隆明全詩集」(2003年・2刷)より、「第Ⅳ部 初期詩篇」の「日時計篇 Ⅰ (1950)」の2回目の紹介をする。このブログ上で、9回目の紹介である。
 
同・(1)は、今月18日の記事にアップした。
概要
 「日時計篇 Ⅰ (1950)」148編の内、今回は「<光のうちとそとの歌>」(958ページ)より「<鳥獣の歌>」(1004ページ)に至る、35編を読み了える。
感想
 「<並んでゆく蹄の音のやうに>」では、X軸、Y軸、Z軸という、これまで詩人に考えられなかった、数学の言葉と表現を得ている。
 彼は熊本県を父祖の地とする(母親が妊娠中に、一家は没落して東京へ移住した)、故郷喪失者である。郷愁はなく、むしろ嫌っている。その事が、近親憎悪(家族は最大10人だったようだ)に始まる、憎悪の哲学の始まりと思われる。
 「<抽象せられた史劇の序歌>」で、「人間をやめるために抽象してきたのだ 風景を かなしみを 思考を…」とあるけれども、科学の抽象化に苦しんだに過ぎない、と思う。科学的なまでの論理性は、彼の感性の論理化の強みとなるけれども。
 「<鳥獣の歌>」の末尾では、「わたしは鳥獣のやうに終には寒駅のY字形の鉄骨や 陽の影の下で生きて無心でありたかつた」とある。「無心」とは言わないけれど、ネットと読書に明け暮れる、僕の今の安穏な生活心境を、彼が再び乱す事は無いだろう。

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写真ACより、「ゲームキャラクター」のイラスト1枚。



詩集 楽園の記憶 歌になった言葉たち
 あいね麗奈のkindle unlimited本・詩集「楽園の記憶」を、タブレットで読み了える。
 本書の
ダウンロードは、今月20日の記事にアップした。
 2017年10月22日・初版。32編の歌詞と、「はじめに」「おわりに」を付す。
 目次欄の題名にタッチして、作品に飛べる。ハイライト機能はないが、栞、拡散、表示変更、等の機能はある。
 ゴシックでもゴスロリでもなく、ゴス文化というものがあるそうで、彼女の歌詞もそれに含まれるのだろうか。
 幼い楽園時代があり、喪失があり、若くして追憶に生きる若者の心情が、表わされているのだろう。
 英語のみの作品「Beside the garden」「Walking around」「Small world」は、やや長めだが、ほぼ僕の理解できる単語で書かれている。
 これらの方向で、彼女はもっと活躍できると思うので、今後も出版活動を期待する。


 思潮社「吉本隆明全詩集」(2003年・2刷)より、「第Ⅳ部 初期詩編」の 「Ⅻ 日時計篇 Ⅰ(1950)」の1回目の紹介をする。このブログ上で8回目の紹介である。
 先行する
同・「Ⅺ 残照篇」は、先の1月18日の記事にアップした。
概要
 「日時計篇 Ⅰ」は、手製原稿数100枚に、1950年8月頃から年末にかけて書かれた148編の詩である。
 その内今回は、初めの「日時計」(916ページ)から「少女にまつはること」(958ページ)に至る、32編を読み了える。
感想
 「<暗い時圏>」の冒頭で「一九四九年四月からわたしはコンクリートの壁にはりめぐらされた部屋の中で 一日の明るい時間を過さねばならなかつた」とあるのは、年譜に拠ると、東京工大の「特別研究生」(現在の大学院生に該当)として学び始めたからである。ここでも異性関係の不幸と、強い孤独「喜怒哀楽のやうな 言はばにんげんの一次感覚ともいふべきものの喪失のうへに成立つ」、神経症的でさえある孤独を感じている。
 「詩への贈答」では、「この苦難にみちた時代にあつて/巧みな技倆と殉教者のやうにしかめた貌を視せる/あの姿勢(ポオズ)はまことの詩人のものとは思はれない」と、1部の詩人を批判している。
 「秋の予感」の末尾「それがもの言ふんだ もの言ふんだ!」の放擲的な書きぶりは、所々に現われ、中原中也の影響だろうか。
 「<海べの街の記憶>」でも投げやりな口調の後に、「ぼくはお礼に洗濯石鹸やハーモニカをとりだして/ついでに誓つてみせたものだ/きつと偉いひとになりますといふ具合に」と、おかみさんたちに誓っている。そして彼は後に、1部の人に仰がれて、全集類が何度か出版される有力者となった。彼の詩作品しか、僕は有力視しないけれども。
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写真ACより、「ファンタジー」のイラスト1枚。


 



「角」45号
 今月20日の記事で、贈られた事を紹介した3冊の内、同人詩誌「角(つの)」第45号を紹介する。
 
同・44号は、昨年10月6日の記事にアップした。
N・六さん「心配なので」
 「…はやりムードに流される世間を見ていると、/平和でおだやかなくらしはどうなるのだろうか。/…/本当のことは隠されていることが多いので、/だからただ今、/勉強中なのである。」と終わるけれども、何をどのように勉強中なのか全く書いてないので、訴える力が弱い。
N・としこさん「すみれ」
 11月に返り咲いた菫をうたっている。「なにごとか 自身の詩(うた)を紡がせて/<トウ トウトウ/スルー/トウトウトウ スルー>/…この地球に/明日も 風が立ちますように/」と書く。オノマトペが菫の歌で、「風が立ちます」云々が「風立ちぬ」の本歌取りだとしても、あまりに世間離れしている。
M・りょうこ「困る」

 猿が庭に来て、無花果、柿を食べウンチを残すので困る様を描く。「何とか山に戻っておくれ//世の中随分進歩しているのに/困った 困ったで/日が過ぎる」と結ぶ。世の中が進歩したから、野性獣が民家周辺に現れるのだろう。開発で生息地を奪われたか、逆に山が放棄され食料がないか、人間を怖いと思わなくなったか。野性獣に市民が無力であると知って、出没するのか。放棄林、放棄田等、自然が変わりつつある。
Y・万喜「年を追うごとに」
 年を追うごとに一年が短くなると嘆きながら、「それなのに一日一日はまどろい/長くじれったく感じるのは何故だろう」と書く。僕は職をリタイアし67歳になって、ネット、読書、他、毎日忙しい。
T・尚計「赤い羽根」
 赤い羽根の元は「羽を毟るために育てられた鶏だとわかった」と書くが、来年も赤い羽根がほしい、という。僕は赤い羽根に、疑念を持っていて、ほしいと思わない。
S・淙太郎「時と貫流」
 彼の大言壮語風の作品に、「詩がわかっていないな」と辟易していた。発行人のK・久璋さんと、心で通底するものが、あるのかも知れない。
K・久璋「雲間」

 「むら雲が湧くのは/神さまのおすがたを隠すため//雲がなければ/神などこの世にはいない/そうに決まっている」と書く。神が存在するなら、顕現し、述べるだろう。「後姿が少し見えた/…/淋しい背中だった/浮かぬ顔をされておられるに違いない/見なかったことにした」と結ぶ。神の姿を観た(信仰を確信した)なら、喧伝するものだろう。「見なかったことにした」の信仰はあり得ない。
 他の詩、散文に就いても書きたかったが、既に字数が多く、今回はこれで擱く。
 批判ばかりを連ねたようだが、ここではっきり書いて置かないと、うわべだけ扱っていては、僕の読書日記ブログが前へ進まない思いがあるからである。






「水脈」61号
 今月21日の記事、「贈られた歌集と詩誌2冊」で報せたうち、詩誌「水脈」61号をほぼ読み了える。
 
同・60号に就いては、昨年8月26日の記事にアップした。
概要
 2017年12月28日、水脈の会・刊。A5判、50ページ。
 13名22編の詩(扉詩を含む)、2名2編の随筆、報告等5編、活動日誌、編集後記を収める。表紙絵、扉詩「月よ」、共にK・仙一さんの作品である。
感想
 「詩人会議」系の詩誌であるが、各人には異なった志向も見られる。
 K・通夫さんの「友への返信」、I・冴子さんの「その日」、I・義一さんの「優しい人たち」に政治性を読めるが、思想性はわからない。
 他は生活詩、境涯詩として読める作品である。お付き合いの長いI・信夫さんの「冬を越える」、「地の在りか」、S・周一さんの「蛸の一日」に、外からはわからない心境を窺えて、感慨がある。
 1泊での60号合評会、詩集出版記念会、「夏のつどい」と支える会合が持たれ、「水脈日誌」と共に記録もしっかり残されて、創作のモチベーション維持に役立つだろう。
引用

 Y・やよいさんの詩「まだらネコ」に魅かれた。ペットの死ではなく、人の死に際の(死の5段階「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の最終「受容」に至って、安らかに死を受け入れる)心情を、どこかで掴んだと思われる。3連の末連を引く。

  まだらネコ
    Y・やよい
……
冬も寒さは遠のいたある夜
ネコは冷たいコンクリートの道を
歩いていた
おひさまにみとられて死にたいと思ったが
本能がそうさせなかった
ネコが最後にふりかえって
小さな家を見つめると
あめ玉のような目から 涙が
流れ続けた



 思潮社「吉本隆明全詩集」(2003年2刷)より、「第Ⅳ部 初期詩編」の「Ⅺ 残照編 (1949~1950)」を読み了える。7回目の紹介である。
 先行する
同・「Ⅹ 詩稿Ⅹ」は、今月13日の記事にアップした。
概要
 27編を集める。なお(1949~1950)と添え書きされるが、1950年には「Ⅻ 日時計編Ⅰ」148編が制作されている。
 手製の原稿用紙24枚の表裏48ページの詩稿とされる。全50編のうち、残り23編は判読困難とされて、収められなかった。
感想
 この詩編群では、これまでよりも思想性が露わになっている。
 「午前」では「清廉 潔白 端正な形の眉/ああそいつはぼくの心理のいづれのはしくれも占めてゐない/汚濁 反抗 忿瞋と泥沼/まるでどうにもならないやりきれなさで充ちてゐるんだ」と戦後派のやりきれなさを描いている。
 「理神の独白」では、「ぼくは生存の条件/を何か他の要素でおきかへたため 脱落して路頭にある」と孤立の思いを確かめている。
 「列島の民のための歌」では「大凡ありとあらゆる地上の愚劣と卑小は/この島を占有してゐる/いまも眠つてゐる太古のままの民たちよ」と日本庶民の未開を嘆く。
 「昔の歌」では「ぼくもうたをうたふからには/たしかに人間の集積してきた巨大な精神を/すべて忌みきらひ反抗するのであつて/妥協の余地はないのである」と、反抗の詩人としての決意を明らかにしている。
 「長駆」では「たゆたふことなく論理は心理の影像を帯びはじめた」と心理と論理の一体化した、思想を展べる基礎が現われる。
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写真ACより、「ファンタジー」のイラスト1枚。



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