風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

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小説

 新潮社の「川端康成文学賞 全作品 Ⅰ」(1999年・刊)より、1982年・受賞の色川武大「百」を読み了える。
 先行する竹西寛子「兵隊宿」は、今月3日の記事にアップした。


 僕はこの短編小説を読んだことがあり、調べると旧ブログ「サスケの本棚」の2015年3月4日の記事に、同題の短編小説集「百」(新潮文庫)をアップしてある。

 ブログは検索に便利である。同・記事のミスは、武大はブダイではなくタケヒロと読むこと(Wikipediaで確認済み)と、僕の本棚に彼の麻雀小説「麻雀放浪記」4冊・揃(新潮文庫)が残っていること、2点である。
 ブログの検索に依ると、他に「引越貧乏」「あちゃらかぱいッ」「怪しい来客簿」(いずれも文庫本)を読んでいる。

 「百」は、95歳の老父が、30年一人で生きて来たのが、次男家族(夫婦、娘)、妻(家を出て事業をし、父を養った)と、同居するようになり、ガクッと衰えて幻聴・幻視で騒動を起こしてしまう話である。「百」というのは、あと5年生きて100歳になれば、区役所からの祝い金・百万円を一人孫娘に贈ろうと、父が楽しみにしていると「私」に告白するシーンから取られた。敗戦の傷を秘め、高齢者の問題を先駆的に捉えた作品である。
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イラストACより、「自然」の1枚。



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 森瑶子の短編小説集「男三昧 女三昧」を読み了える。

男三昧 女三昧 (集英社文庫)
森 瑤子
集英社
1990-02-20

 僕がこの本を読み始めたのは、8月8日から9日に替わる真夜中で、読み了えて寝入った。朝の5時頃、鼻より少し嘔吐があった。ティッシュで拭いて寝入った。午後3時になって、熱が37・5度あり(僕の平熱は35度台)、S病院の時間外診察を受けた。2時間の点滴、レントゲン検査、CT検査により、肺炎養生他で数日間の入院となった。
 胃腸の膨満感がありながら、久しぶりに読む森瑶子の小説は(僕の本棚にある、彼女の最後の小説)夜半より読み了えるほど魅力的だった。ずいぶん煽情的である。不倫や倦怠期で別れかける夫婦から、家庭生活を守るために定期的に男漁りを続ける主婦、一途な女性の思いに男性がようやく気付くが結ばれない、など女性の情念を描いて見事である。
 森瑶子は1977年、37歳でデビュー、1993年に惜しまれて亡くなる短い作家生活で、100冊以上の本を生んだ。日本のバブル期を駆け抜けるようだった。
 新婚時代の僕たち夫婦も、彼女の文庫本を読みあさったものだ。


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 新潮社の「川端康成文学賞 全作品 Ⅰ」(1990年・刊)より、1981年・受賞の竹西寛子「兵隊宿」を読み了える。
 先行する野口冨士男「なぎの葉考」は、先の7月28日の記事にアップした。

 リンクより、関連旧記事へ遡れる。

 「兵隊宿」は、港に近い町の、部屋数の多い民家に、出港する前の兵隊が次々と泊まる話である。息子のひさし少年の目で描こうとするが、作家が直接描く場面もある。
 将校や兵隊たちに同情的である。戦争を美化するのかと、敗戦後すぐには、許されなかったストーリーだろう。1981年となり、反戦の風潮も緩んできたのだろうか。少年の目、母親が兵隊の行く末に胸を痛める思い、小母さんの庶民感情の言葉、によってようやく成り立っている。
 僕も71歳の死に近づく(人生100年とすると、30年あるが)歳になって、この小説を許せる気がする。
 多くの読者は、竹西寛子の名前を知らないだろう。1985年・受賞の田久保英夫となると、マニアックな読者しか知らないだろう。僕は野口冨士男の名前を知らなかった。世の移り行きと共に、読書の嗜好も変わり、古く忘れられる作家があり、新しく注目を集める作家が生まれる。



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 イラストACより、鉢植えの1枚。


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 筑摩書房「現代日本文学全集 補巻8 上林曉集」より、8番めの短編小説「擬宝珠庵(ぎぼしあん)」を読み了える。
 先行する「嬬恋ひ」の感想は、先の7月2日の記事にアップした。

 リンクより、関連過去記事へ遡り得る。

 「擬宝珠庵」は、戦争末期、作家が郷里の四国へ疎開する場合を考え、裏山へ建てることを空想した、掘立小屋の名前である。賞愛する庭の擬宝珠を分け植え、読書執筆の生活を持とうとする。鍬を取っての農業は、40歳過ぎの自分には無理だと書いている。僕にさえ甘い空想である。「私といふ男が、人の世の温かさをこそ知れ、まだ無情と冷酷と憎悪に痛めつけられて死ぬ思ひをした試しがないので、…」と、作家も気づいている。
 空想に頼ることが、悪いことだけではない。それにより、生き延びる日々が、ある人々にはあるだろう。
 短編の私小説ばかり書いたことも、あながち否めない。俳歌の人々も、日々の悶々や喜びを作品にして、生きる支えとする。俳歌人にはプロが少ない(アマチュアの多さに比して)が、上林曉が作家の生を全うしたことは立派である。性格的にどうかという面もるが、文学創作が「世に生れ合せた生き甲斐であり、自分の人生そのものである」とする面から、やむを得ないところもあるのだろう。



ギボシ
 写真ACより、擬宝珠の写真1枚。

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 今月15日の記事、入手した5冊を紹介する(7)で、ダウンロードを報せた、植原剛「焼き鳥」を読み了える。

 これでその時に挙げた、5冊すべてを読み了えたことになる。

焼き鳥 (小説)
植原 剛
2021-03-24

 400字詰め原稿用紙20枚の短編小説である。
 植原剛はインディーズ作家らしい。Amazonでは、この作を含め、4冊の小説がKindle出版され、カスタマーレビューも付いている。
 ストーリーは、飲み屋に入った「俺」が料理「とりつくね」(実は「憑りつく根」)の美味に憑りつかれる。
 「俺」の紹介が挟まれる。56歳、独身。小説家を目指したがものにならず、定職に就かず、周囲を避けて生きて来た。実家に資産があり、食うに困らなかった。
 「とりつくね」の製法は、酔っ払いの腰から生える影のようなものから、根っこを調理するのである。酔っ払いは、テーブルの端を流れる酒に酔いつぶれ、「影の水耕栽培」と店主は笑う。
 店主の郷里は「ねのこく」と教えられるが、「根の国」(広辞苑で、死者のゆく黄泉の国とされる)らしい。「俺」はそれより飲み屋に通い続け、「とりつくね」の素を何度も提供している。
 アルコールにより破滅しかけた男の心情を、ホラーファンタジーでよく描いた。
 作家の実力は認めるけれども、ジャンル?が僕と合わないので、Kindle Unlimited版ながら、続けて他の本を読む気は起こらない。お好みの方は、読んで応援してほしい。




02 (6)
 写真ACより、鉢植えのイラスト1枚。

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 「川端康成文学賞 全作品 Ⅰ」(1999年、新潮社・刊)より、第7回1980年・受賞の野口富士男「なぎの葉考」を読み了える。
 第6回1979年受賞の開高健「玉、砕ける」は、今年5月14日の記事にアップした。



 野口冨士男(のぐち・ふじお、1911年~1993年)は、原稿用紙1,500枚の「徳田秋声伝」で、毎日芸術賞・受賞。他、受賞多数。日本芸術院賞を受け、日本芸術院会員となる。
 「なぎの葉考」は、1936年秋の紀州旅行を思い出しながら、紀州・新宮出身の間淵(どうも新進作家だった中上健次らしい)と、再訪する物語である。25歳だった作家が、優れたからだと優しい心を持った娼婦と出会い、2度めの延長をしようとすると、娼婦はそうして身を滅ぼしていったた客が6人もいたと、諌め留める。記憶の美化なのか、若者へのひけらしなのか、フィクションが多いと思われる。
 文学者の盛衰も大きいと、思わせる作家である。





02 (4)
 写真ACより、鉢植えのイラスト1枚。
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 吉田篤弘の月舟町三部作より、完結編の「レインコートを着た犬」を読み了える。
レインコートを着た犬 (中公文庫)
吉田 篤弘
中央公論新社
2018-05-22


 第1作の「つむじ風食堂の夜」は、今月22日の記事にアップした。

 リンクより、初めに読んだ第2作「それからはスープのことばかり考えて暮らした」の感想へ、遡れる。
 「レインコートを着た犬」は、映画館主の青年・直さんに飼われる犬(人語、人情を解する)ジャンゴの目から視た、直さん、映画館でパン屋を営む初美さん、コンビニに勤めるタモツさん、古本屋のデ・ニーロ親方、その妻で屋台の飲み屋をしているサキさん、つむじ風食堂のサエコさん、果物屋の青年兄弟たちの物語である。漱石の「吾輩は猫である」のようだ。
 サキさんが屋台を止められない理由を、「ただ、わたしのこの屋台はね、云ってみれば、世の中のどんづまりにある最後の楽園みたいなものだから」と述べて、家庭にも居場所のないサラリーマンを思わせる。ジャンゴは、「世間知らずという言葉が示す「世間」というものは、、そうした純真なものをひねりつぶすのが得意である」と思う。また「愚かしいことは時に可愛い。可愛いことは、おおむね愚かしい」とも。
 うらぶれた住人たちだが、直さんがギターの名手である(今は封印している)ことが明かされ、降雨を研究している先生は問題解決の糸口を掴み、住人それぞれが新しい出発をするのかと、僕は思った。「リベンジ」という言葉(復讐ではなく、再挑戦という意味で)が好きである。しかし物語では、それぞれが営みをほとんど変えない。映画館の「いつまでも終わらない最後の上映」が話題になり、皆の集合写真を撮る場面で仕舞いとなる。記念写真を撮るようでは、散会の前のようで危うい。
 敗北の美学、敗者の美学、というものを僕は認めたくない。人気作家の作品であることも気に障る。



01 (4)
写真ACより、鉢植えのイラスト1枚。
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