風の庫

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 7月29日(第5日曜日)の午前9時半、3人のメンバーが喫茶店に集まって、短歌研究会B第26回を持った。
 先の6月27日の記事、
同・第25回に次ぐ。
 僕がアイスコーヒーのモーニングセット、Mさんがブレンドコーヒーのモーニングセット、Tさんがアメリカンコーヒーを注文した。
 歌誌の貸し借り、返却や、短歌会F支部の様子を伺うなどした。

 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 今回は、127ページ、昭和三十年の「元日晨朝」の節からである。

 128ページの初め、上の句の「貧しかる俸給取兼詩人にて」はなぜ「歌人」ではいけなかったのか。詩人かつ歌人を自称する僕の、拘る所である。

 「櫓の下」の2首目、「ゆたかなる霜置きしかば青のいろ賑はふに似て野の川くだる」の「青のいろ」は草の事か、川水の事か、僕は迷ったのだが、Tさんは歌の流れから、草の事だろうと判じた。
 同・4首目の、馬の蹄を洗いやる夢は、戦時経験が長く残っていたのだろう。

 「病後小吟」の節の1首目、下句の「むらさきかなし桐の花咲き」は、倒置法である。
 同・3首目の4句「引揚げてきて」は、戦地からの引揚げ者を指す。


 130ページに入って、「椎の実机にころがせり」の2句3句は、「椎の実を机(き)にころがせり」とすれば、音数は合う。もちろん作者には、わかっていた事だろう。

 131ページの、下句「路地行けば軒に鮟鱇吊らる」の軒は、魚屋の軒だろう、と感想が一致した。
 その他にも、様々に語ったが、ここに書ききれない。

 次回の日程を決め、10時半過ぎに散会した。
0-95
 写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。



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 6月26日(火曜日)の午前9時半より、メンバー3人が喫茶店に集まって、短歌研究会B第25回を持った。
 今月1日の記事、
同・第24回に次ぐ。
 僕がアイスコーヒーのモーニングセット、Mさんがブレンドコーヒーのモーニングセット、Tさんがアメリカンコーヒーを注文した。
 飲食しつつ歌誌・歌集の貸し借り・返却、詩誌の贈呈のあと、研究会に入る。
 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 今回は、歌集「多く夜の歌」の「瑠璃と紅」の章の「西国行」の節、124ページからである。

 初めの歌の4句5句「今年のわかき藺田(ゐだ)うち見ゆる」の「うち」と連体形は、貧しいながら農業生産の場(宮柊二は書店の息子で、農業経験がない)の力強さを感じたのだろう。

 2首目の4句5句「原民喜詩碑に対ひ立てりあはれ」は、結句が9音になっても、「対ひて立てり」では済まない、強い思いがあったのだろう。

 「高井戸の家」の章に入り、2首目「人間を大事にせざる実験の大き規模おもひこころ激(たぎ)ち来(く)は、当時の米ソの水爆実験を指すようだ。

 5首目「弁明をせずに生きむとおもふけど弁明以外の何を饒舌(しやべ)らむ」で、「けど」の口語は、「しゃべらん」の口語に繋がるのだろう。


 126ページの3首目の初句2句「ならびたる野菜なつかし」で懐かしいのは、僕は戦後復興を、Tさんは故郷を思っての事、と解した。

 次の「庭土の凹処(くぼど)に溜る雨水(あまみづ)が」の歌に惹かれると、Mさんが述べた。
 
 「しづかに映す」、「このしづかなる」の句が目立ち、心の静かさを、宮柊二は願ったのだろう。

 127ページの「十国峠」の節で今回の研究会を了えた。
 次回の日程を決め、10時半過ぎに散会した。
0-83
写真ACより、「おもてなし」のイラスト1枚。


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 5月31日(第5木曜日)の午前9時半より、メンバー3人が喫茶店の1隅に集まって、短歌研究会B第24回を持った。
 4月25日の記事、
同・第23回に次ぐ。
 僕がアイスコーヒーを、Mさんがブレンドコーヒーを、Tさんがアメリカンコーヒーを注文し、歌誌・歌集の貸し借り・返却の後、研究会Bに入る。
 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 今回は、120ページの始め、歌集「多く夜の歌」の「北海道羈旅」の章の途中からである。
 初めの「表現は生(せい)の営為につながると我はしも言へりこころ定(さだ)めて」は、厳しい言葉である。ただし次の章には、「わがうちの見悪(みにく)き悪魔をりをりに笑ひてゐたり見てをりき我は」の歌もあり、聖人的な生を送っていた訳ではなさそうだ。
 「八月の歌」の節の何気ない生活詠3首は、「八月」の示すように、戦争体験をへて生活の平穏を大事にする思いの表われだろう。
 章題「自方冬至短至」の読み方、意味が3名共にわからない。
 「楊(やなぎ)のわた」の語がはっきりしないTさんに、僕は「柳絮」の語があると示し、Tさんも電子辞書の広辞苑で確認した。
 123ページの「瑠璃と紅」の章に、「ひらめきし稲妻のなか卓に置く指太きこの消極の掌(て)よ」、「おもほえば恥ふかむのみ一切事(いつさいじ)(あく)せぬのみの茫々にあり」の2首がある。従軍経験を経た身は、一切の悪を為さない覚悟があり、家族を守る・短歌で活躍する、という積極の事を成している、と3人で話し合った。
 様々に語り合ったが、書ききれない事もある。
 次回の予定を決め、10時半過ぎに散会した。
0-81
写真ACより、「ファンタジー」のイラスト1枚。




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 4月24日(第4火曜日)の午後1時より、喫茶店で短歌研究会B第23回が持たれた。同・A第44回は、今月19日に持たれた。
 2月2日の記事、
短歌研究会B第22回以来の、研究会Bである。
 喫茶店に早目に来て待つこと数分、現われたのはTさんである。Mさんはご家族の入院で、遅れるか、来れないかも知れないとのこと。
 僕にも不安があって、外出用の眼鏡とパソコン用の眼鏡を、取り違えて使っていた。視力0・1以下の僕が、ブルーライト・カットだけのパソコン用眼鏡で、よく車を運転したものだ。デザインが似ていて、以前にも何度か間違えており、気を付けたい。
 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 今回は、歌集「日本挽歌」(1953年)の「地の塩」の章(113ページ)より。
 初めの「竹群に朝の百舌鳴き」の結句「冬の塩」の字足らずは、中句の「いのち深し」(自分と百舌の命だろう)の詠嘆と相俟って感銘深い。
 「蠟燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代(よ)過ぎぬ」は、名歌として有名である。Tさんが、宮柊二には、蠟燭の歌が幾つかある、停電の多かった時代としても、と指摘する。
 第6歌集「多く夜の歌」(1961年)に入る。
 「灰皿」の章(117ページ)の「竹群(たかむら)の空青青と音なくて寂しき春の時間ぞ長き」に、僕は掛り結びと空き時間を、Tさんは春愁を指摘した。
 「雛祭り」の章では、「はうらつにたのしく酔へば」の歌を、Tさんが好むと述べた。
 20分くらい遅れて、Mさん登場。
 「竹群(たかむら)に春の疾風(はやかぜ)うちとよみ」の歌は、なぜ「はやち」と読ませなかったか、わからない。
 「北海道羈旅」の章では、「春楡の午(ひる)の林に入り来ればこゑもの憂くて郭公鳥啼く」をMさんが好みだと述べ、彼女の歌風に通うと納得した。
 午後1時45分頃だったが、僕の眼鏡とMさんのご家族のこともあり、研究会を打ち切った。
 次の研究会の日程を決め、散会した。
0-56
写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。


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 先の1月31日(水曜日)の午前9時半より、喫茶店にメンバー3人が集まって、短歌研究会B第22回を持った。僕は寝坊して、5分遅れた。
 
同・第21回は、昨年12月に欠けたので、11月25日以来である。
 飲み物を注文のあと、歌誌・歌集の貸し借り、返却をし、研究会に入った。
 短歌研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 今回は第5歌集「日本挽歌」(原著は1953年、創元社・刊、306首)より、「藪下道」の章(109ページ)よりである。
 「夢々惨々(ぼうぼうさんさん)として未来あり」の「夢々惨々」が、広辞苑にもなく、3人にわからない。前例があるのだろう。
 「新聞配達と/して働きき/戦争に兵たりき/今宵四十歳の/矮(ひく)き影あり」の上句は「新聞配達として/働きき戦争に/兵たりき」と切るのかも知れないが、いずれも異様な詠み方である。
 「みづからを偽るまいとおもふとき身体ほてりて夜の闇にをり」は、誰にも偽りはあるのに、自分に厳しい歌人だった、と意見が一致した。
 「新潟の浜」の章。「砂しけば臀(いしき)冷えきつ夏さきの波しづかなる日本海のおと」は、「砂しけば」が「草を藉く」の例があるが、「砂の上に座る」を略して、また「臀」が「臀部」を略して、上手である。「夏さき」は「春先」などと同じく、初夏だろうか。「日本海」と大きく詠んでいることを、Mさんが感心した。
 「夏日幻想」の節(111ページ)より。「銃を負ひ/背嚢を負ひ/たちまちに/苦しわが幻/影あゆみ去る」、「壇上に/反軍備論/すすみつつ/不思議なる聴/衆の沈黙あり」と読むのだろうか。前衛短歌の波があったとしても、大胆な詠みぶりである。
 「水面」の章に入り、初句「曇(くもり)映る」は、「雲映る」にしてしまいがちだが、拘りがあったのだろうとTさんの発言があった。

 結句「わが貧長し」があり、夫婦、病む老人たち、未婚の弟妹、子供たちを抱えて、たいへんだったのだろう。
 113ページの2首でもって、研究会を了え、次回の日程を決めて、10時45分頃に散会した。
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写真ACより、「ファンタジー」のイラスト1枚。



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 11月24日(第4金曜日)の午前9時半より、メンバー3人が喫茶店に集まって、短歌研究会B第21回を持った。
 
同・第20回は、先の10月28日の記事にアップした。
 歌誌の貸し借り、返却のあと、研究会に入った。研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 今回は、歌集「日本挽歌」(1953年・刊)より、「孤独」の章の「六階の部屋」の節(104ページ)よりである。
 節の題の「六階の部屋」は職場の事らしく、「はかなしと一人ごちつつ立てるとき無人の机あり吾をめぐりて」の歌がある。一人での残業の終いだろうか。「机」は「き」と読むのだろう。
 次の「智慧出 有大偽」の節の「をさなごよ汝(いまし)が父は才(ざえ)うすくいまし負(おぶ)へば竹群(たかむら)に来(く)も」の「負へば」が「負ひて」でないのは、負った時には竹群に行く当てはなかったのだろう。
 次の「鉄道草」の章の初め、「群(むらが)れる蝌蚪(くわと)の卵に春日さす生れたければ生れてみよ」の結句字足らずの歌とともに、名歌として有名でもある。
 「選歌行」の節の、「露ふかきダリアの花を音たててするどく食みゆくきりぎりすをり」の歌は、音に敏感で、よく観察しているという評があった。

 「朦朧」の章の、「「土を盛る墳(はか)にたづさふる悲しみ」となげかひしものを少しく解(かい)す」の「たづさふる」は「たづさふ」の連体形、「携わる」に近い語で、「関わる」の意味だろう。遺跡発掘の学者の事だろうか。
 この「朦朧」の章のしまい(109ページ)、10時半くらいに、僕の腰が痛んでギブアップした。次の研究会の日程を確認して、散会した。
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写真ACの「童話キャラクター」の「桃太郎」より、宝物のイラスト1枚。


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 10月27日の午前9時半、メンバー3人が喫茶店の隅で、短歌研究会B第20回を持った。
 同・第19回は、先の9月28日の記事にアップした。
 まず歌誌・歌集の貸し借り、返却をして、しばらく話したあと研究会に入った。
 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 前回で歌集「晩夏」を了えていたので、第5歌集「日本挽歌」(1953年、創元社・刊。306首)に入る。
 主な話題となった所を挙げる。
「雨となる午後」の章
 「悔しけど」の歌、「永遠の諦めも現実に随ふと為(せ)ん」の「も」は他の何を指すか、Tさんが問う。僕は「生活も」だろうと思う、と述べた。
 「つらなめて」の歌の、初句「つらなめて」は、「列並めて」の漢字にあたる。また結句の「揺ぐ」は、「ゆらぐ」と読むのだろう。
 「旅にきて豊年まつりのうたきけり歓ぶこゑの身に沁むものを」の歌は、宮柊二が書店の子で、東京に出奔して、農業の経験が無い上での、感慨だろう。

「孤独」の章
 「冬ふかむひかりとおもふ道の上に俄にあらき凹凸見えて」の「ひかり」は、街灯の光か、とTさんが問う。僕は日光だと思っていた。「俄に…見えて」から、当時まだ少なかったであろう、街灯の光だろうという事になった。
 結句の「凹凸」は(でこぼこ)ではなく、(おうとつ)と読むのだろう、と僕とMさんの意見が一致した。
 この所104ページ、10時半頃で僕が腰痛のため、ギブアップした。次の短歌研究会Aの日程を決め、40分頃に散会した。
0-44
写真ACの「童話キャラクター」の「桃太郎」より、きび団子のイラスト1枚。



 
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