風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

 このブログを運営している新サスケは、2017年10月17日付けでのAmazonのKindle本、第4詩集「詩集 日々のソネット」(縦書き)の発行に続き、第5詩集「改訂版 ソネット詩集 光る波」(縦書き)を、2018年5月31日、Kindleストアにて発行しました。著者名は、柴田哲夫(僕のペンネームの1つ)です。
 2011年10月1日・刊の紙本「ソネット詩集 光る波」に、数十ヶ所の加筆をし、編集しました。
 販売ページは、Amazonの「Kindleストア」カテゴリーで、「ソネット 光る波」と入力して検索してくだされば、即で見つけられます。右サイドバーのバナーよりも着けます。
 kindle版で540円(税込み)、kindle unlimited版も発行しています。

エッセイ

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 昨日の記事「届いた1冊、頂いた7冊」に挙げた内、同人詩誌「青魚」No.89を、ほぼ読み了える。
 
同・No.88の感想は、今年6月10日の記事にアップした。リンクより、旧号の記事へ遡ってゆける。

 冒頭、K・和夫さんのエッセイ「龍泉寺界隈ふたたび」は、現・越前市(旧・武生市)の敗戦直後の回想から、産物の世界展開への現在の希望を描いて、懐かしい文章である。

 T・幸男さんの4編の詩(ペン書きを縮小掲載したもの)は、上下2段の下段に作庭した(彼は作庭家であり、画家でもある)庭のカラー写真を置いて、展開する。やや難解だが、題名「彼岸の滸で」、「永劫の無辺(ほとり)で」、「足のうら」、「皿ねぶり」の題名を考慮に入れると、わかりやすいか。前2編は無常観を感じさせ、あと2編は年少時の回想が濃い。
 千葉(兄)さんの「匂い」、千葉(弟)さんの「姉、敏子」、共に姉の死を詩って、詩風の違いを見せる。
 高年大学から出発した詩人たちも、どんどん進歩している。

 M・幸雄さんの「現代詩を語る」(座談会記事より抜粋)では、主張の1つに「近現代詩語辞典」の作成を求めている。
 安部倹司・遺稿詩集「生と死のあいだ」(千葉(兄)が出版に関わった)は大冊だが、5名の方が丁寧な感想を寄せている。


 僕はソネット9編(と短歌連作1編)を寄せた。もう1つのブログ「新サスケと短歌と詩」の、11月20日の記事より、ソネットを毎日1編ずつアップするので、横書きながらご覧ください。


 砂子屋書房・現代短歌文庫(104)「続 藤原龍一郎歌集」より、巻末の「歌論・エッセイ、解説」を読む。
 今月8日の記事、
同より「『ノイズ』抄」を読む、に次ぐ。

 エッセイとして、「ゲバラ書簡集にぞ黴―私のライバル・私の歌友―」、「家族の些細な歴史」が挙げられる。ライバルとして西王燦を挙げている。「家族の些細な歴史」では、母方の祖母、叔母3人、叔父1人、それに父母の、それぞれの戦争体験の無限の影響を述べた。
 歌論のうち、自分の短歌に就いて論じたものとして、「時代の中の<私>―<私>を詠うということ」がある。自分の各3時代の作品に、感慨深く考えを述べている。
 他の8編は皆、他の歌人の短歌を挙げて論じている。総じて称揚しており、余裕が見られる。
 「韻文の精華―小中英之の短歌―」では、全歌集の刊行とともに、小中英之の短歌を「韻文の極致」と称揚している。「フラットな口語が無制限に短歌形式に乱入し」ている事態を批判すると共に。
 僕は例の俵万智以降に歌を詠み始めており、また詩も書き、ブログ記事を書き、それぞれでガス抜きをしており、テンションの高い歌を詠めないのだろうか。この方法の利点もあるだろう。
 栗木京子、香川ヒサ、西王燦の、短い藤原龍一郎論を収めている。
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写真ACより、「乗り物」のイラスト1枚。





 砂子屋書房・現代短歌文庫(27)「藤原龍一郎歌集」より、エッセイ2編、解説(他からの批評)4編を読む。
 同書の第2歌集
「東京哀傷歌」は、今月18日に記事アップした。
エッセイ2編
 「一回性の輝き―初代タイガー・マスク」は、1980年代初めに活躍したプロレスラー、初代タイガー・マスクへのオマージュである。
 当時はテレビのプロレス放送が盛んだったから、その空中戦法に僕も惹かれた。しかしプロレス・マニアではなかったから、それまでだった。藤原龍一郎は、自身の鬱屈の持って行き場として、後のロマン・ポルノと共に、熱中したらしい。
 「短歌とミステリーとロマンポルノ」は、早稲田短歌会に入りたいのみに慶応大学から早稲田大学に移った彼が、熱い政治の時代に遅れた70年代の情念を、短歌、ミステリ(ワセダ・ミステリ・クラブにも属した)、「にっかつロマンポルノ」に、注ぎ込んだ様を描く。
解説4編
 歌人の小池光「<ああ>の激突」も、三枝昂之「感傷的で周到な物語」も、当時の藤原龍一郎の鬱屈した情念を充分に受け取っていないように思える。世代差、経験の差が、そうさせるのか。
 武田素晴「東京は悲しき器」は、東京に生活を決めた彼の、時代の影と共に、その心情に迫っている。
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写真ACより、「フード&ドリンク」のイラスト1枚。



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 先の9月21日の記事、、「頂いた本など9冊より(2)5冊」で報せた内、3番目の[COCOON」Issue09を読み了える。
 
同・Issue08の感想は、今年6月22日の記事にアップした。
概要
 結社「コスモス短歌会」内の若手歌人に拠る、季刊同人歌誌である。1965年以降生まれと限定するらしい。シニア誌に「灯船」がある(僕は読んだ事がない)。
 Issue09は、2018年9月15日・刊、81ページ。
感想
 巻頭24首詠4名、12首詠の外、評論、エッセイ、アンケート、短歌を添えた細密イラスト(2点2ページ)など、厳しく楽しく運営しているようだ。
 M・竜也さんの「ガラスで町と隔たれている」は、「隔てられいる」が正しいだろう。新古の文法が混じると、戸惑うらしい。
 無責任な自称・叔父さんは、巻末のアンケート「好きだった給食は?」の答えに、もっとも関心を持ってしまう。
引用

 N・まさこさんの「圧」24首より。引く1首は、信用しない教師・生徒の関係が詠まれる。
よるほどにくちびるむすぶ女生徒に近寄るほどにほどけなくなる
 O・達知さんの「やまねこ」24首より。そう、僕たちは30年後に心に響く歌を詠もう。
三十年のちに自分を揺さぶると知らずに揺れていたり<やまねこ>(中島みゆき)
 S・なおさんの「プキュと鳴く」12首より。刹那的、瞬間的であり、1回性である。逃避的でもあるが、悪い生き方ではない。
白くまをすくふスプーン冷たくてくぼみのなかに踞りたし





 先の1月8日の歌集の記事に続き、邑書林「セレクション歌人3 江戸雪集」より、「散文」の章を読む。
 歌論の「佐竹彌生論」と寺山修司論「誤解をおそれないひと」、それにNTT DoCoMoで配信していた短いエッセイ「短歌のある日々」より11編を収める。
佐竹彌生論
 「…ひとりの歌人と出会った。というより、ひどく孤独で清廉な「歌」に出会ったという方がよいだろうか。」と、短歌との出会いらしい事を描く。佐竹彌生のストイックで死を想う等の歌を幾つも引きながら、魅力を説く。自分の感性に珍しく近いものを感じたのだろう。
 僕は俗な世過ぎの、1瞬の聖を捉えて歌を作る方法を取って来た(現場労働でも、遠い通院でも、ネット漬けのリタイア後でも)ので、ここに引かれる佐竹彌生の歌には、僕は惹かれない。
 人は誰でも、他人には意外な、出会いを持つものだ。
誤解をおそれないひと
 寺山修司の歌論と短歌への、共感を述べている。寺山修司の言葉「私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力が望ましいのだ。」に、「喜んで賛同したし、今も変わらない。けれど、それと同時に、「あるがままの世界」或いは「私」を越えて創造する難しさにどうしようもなくなってしまうときがある。」と嘆く。短歌の普遍性は、定型と歴史(の新しい1歩)が、おのずと齎すと考えるのは、甘いだろうか。
短歌のある日々

 気さくなエッセイで、マンション暮らしの恐怖、少年達への共感、ユーモア、しんみり、とエッセイの要素に事欠かない。エッセイのせいか、一般向けのせいか、子供が大きくなって来た(3歳~4歳)せいか、ここには安らぎがある。
 この本にはこのあと、藤原龍一郎の江戸雪・論「咲くやこの花」、略歴、あとがき、初句索引を収める。続く歌集を、僕の読む日が来るだろうか。
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写真ACより、「おもてなし」のイラスト1枚。



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 砂子屋書房・現代短歌文庫127「続 森岡貞香歌集」より、3歌集全編を読みおえ、末尾の「歌論・エッセイ」13編を読みおえた。
 先行する3番めの
歌集「敷妙」は、先の1月30日の記事にアップした。なおこの本では、1首1行となっており、正編の1首2行・1ページ2段とは異なっている。
  「覚書・文化としての短歌と歌人」は、4章に渉る覚書である。「Ⅰ」「Ⅱ」では、「女人短歌会」発足の頃の仲間、葛原妙子や五島美代子をめぐる回想と記録である。
 「Ⅲ」では、「ユリイカ」誌上での企画、詩人・大岡信との往復書簡を語っている。
 「Ⅳ」では、季刊同人歌誌「灰皿」(1957年~1959年まで、6号)や、「律」(1960年~1963年、3号、「ジュナル律」「律’68」に引き継がれる)の、戦後短歌の活動が語られる。
 「葛原妙子 ―覚書ノート」では葛原妙子を巡って、「挽歌のこころ」では主に五島美代子を巡って、それぞれ歌に即して語られる。
 「五十回忌近く」は、戦後帰還して約半年で亡くなった夫へ、50回忌近くに語りかける文章である。「なんという長い年月が過ぎたことか。わたしはそんなに長く生きてきたと思われません。」と結んでいる。


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 村上春樹「職業としての小説家」(新潮文庫、2016年10月・刊)を読みおえる。
 昨年10月18日の記事、
「届いた4冊」で、入手を報せている。
 文庫本が出るまで待ち、買ってから寝かせておいたのは、kindle本「村上さんのところ コンプリート版」(前のブログ「サスケの本棚」で何回かに分けて紹介した)で、彼の個人としての悪い性格を見てしまった(励まされる部分もあった)からである。彼のいわゆる「麻薬」が切れた思いだった。
 読み始めようと思ったのは、何となくで(長めで読みやすい本として)、彼の新刊小説の題名、冊数を知る前である。春頃に新刊小説が出るらしい、という情報はあったかも知れない。
 Amazonの「内容紹介」では、「自伝的なエピソードも豊かに長編エッセイがついに刊行」と書かれて、直接には書かないが自伝的エッセイとして売ろうとしている。
 村上春樹としては、年齢的に、作家歴的に、文学賞について、学校について、等の考えを全12章で、明らかにしておきたい、という意向だろう。
 ただしどうしても、成功者の回顧談と読んでしまう。いかにチャンスを掴み、いかに苦労・努力したか、というような。
 しかし2月24日・発売の新刊小説、「騎士団長殺し」(1)(2)をAmazonに予約して、わくわくするのは、彼の麻薬の味を思い出したか。小説は、最上等の内容と信ずる。


 

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