風の庫

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全歌集

 短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、第5歌集「朱鷺」を読み了える。
 
第4歌集「魚紋」は、昨年12月11日の記事にアップした。
概要
 原著は、1947年9月、青垣会・刊。先の「魚紋」より、約9ヶ月後の刊行だった。
 橋本徳寿・序文「岡部君」、464首、著者後記「巻末小記」を収める。
感想
 橋本徳寿は序文で、敗戦の痛苦をしみじみ感じていない者の旺盛な作歌を不思議、美しい、頼もしいと述べ、また同じような者からの第二芸術論その他を空しい言葉だと断じている。序文の末尾で、「君の作品は大いに動きつつあるやうに感じる」と感嘆している。
 自然詠は純化し、主情の歌(相聞歌、家庭詠、産業詠を含む)は純化し、時に混じり合う作品もありながら、手応えは感じているようだ。
 掉尾の歌が「口にいでていまだいふべきことにあらぬひとつの思想昨日よりもちぬ」であって、弱者を踏み越えてでも前進しよう、という思想のように今は受け取れる。
引用

 以下に7首を引く。
笹山の寒きくもりにひびきつつ鶫のこゑかまたしきりなり
冬の光(ひ)はうすらにさむし白白とこの山中の砂に素枯に
(も)ゆる火の余燼のごとしといふなかれいのちかがやきて君を恋ふのみ
ふかき夜を地震(なゐ)に目ざめてひとりなり吾が児の骨は昨日葬りし
闇市に日の暮に来つ雑踏の饐(す)えし空気の黄も堪へがたき
あたたかき乳のコップを卓におきいづこより差すひかりとおもふ

貨車の炭(たん)降りこむ飯(いひ)を食ふ母児(おやこ)いづくをたより引揚げゆかむ
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写真ACより、「おもてなし」のイラスト1枚。




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 短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、第4歌集「魚紋(ぎよもん)」を読み了える。
 
第3歌集「寒雉集」は、先の11月26日の記事にアップした。
概要
 原著は、「寒雉集」と同じ1946年、3ヶ月をおいて発行された。
 486首と著者「巻末小記」を収める。青垣会・刊。
感想
 結社「青垣」と師の橋本徳寿の主張として、「現実の相に根を張り、自己を強く打ち出す」(三省堂「現代短歌大事典」2004年・刊に拠る)があった。
 写生にも主情にも徹せず、生活詠にも自然詠にも徹せず、読んでいてもどかしい思いを多くした。彼が後年、どのように発展して行ったかは知らないのだが。
 またその半ばする所を詠んだ、「虹鱒養殖場」の連作には、圧倒される。
 専売局の職員だったので、数少ない職場詠の、塩の運び屋を検挙する連作はリアルだった。
引用

 以下に7首を引用する。
闇市に飛魚(とび)青青と並べたり氷見(ひみ)の海よりはこべるらしも
綿を売りけふいくばくの金あれば米を買ひこゑあげてをさなごの食ふ
市役所の暗きにかがむいくたりか抑留者名簿を指によみつつ
二升余の塩をさげたるまづしきは吾がみのがさむゆけと押しやる
涌きかへり播餌を襲ふ虹鱒の激(たぎ)のごときを茫然とみぬ
山なかの寒きひかりに朴の落葉檪の落葉降りつもりたり
しづかなる蛹となりし毛虫ひとつ枳殻(きこく)にみつつかへすあゆみを
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写真ACの「童話キャラクター」より、「白雪姫」の1枚。






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 短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、第3歌集「寒雉集(かんちしふ)」を読み了える。
 
第2歌集「鑿岩夫」は、先の10月24日の記事にアップした。
概要
 「寒雉集」は、戦後の1946年、青垣会・刊。981首。青垣叢書第21篇。
 なお2歌集の間に、合同歌集「いしかは」(1937年・刊)、「日月」(1944年・刊)がある。
感想
 初め2歌集ののち、岡部文夫はプロレタリア歌人同盟から脱退し、1931年、橋本徳壽に入門、「青垣」会員となる。
 プロレタリアの叫び的な自由律短歌から、生活からの写実を旨とした短歌に移った。写生・写実を絶対としない今の短歌の風からは、古風に読める。
 それとこの全歌集が、1ページ20首組みと混んでおり、また歌数も981首と多い事から、かなり読みにくかった。読書の前途の困難を思わせる。
 なおこの当時、作歌意欲旺盛で、1946年にこの「寒雉集」を含め2歌集、1947年に2歌集、1948年に2歌集、1949年に2歌集と、続々上梓している。

引用
 「寒雉集」より、7首を引く。
この夏にひとたび刈りし草(かや)の山蕨と笹とやうやく秀(た)けぬ
ふかぶかとしたるくもりは湖の上に垂(た)りつつ動くともなし
みすずかる信濃の山に汝(な)はおきて任(まけ)のまにまに遠く来にけり
磯の畑の麦を播きをへしくつろぎに和倉のみ湯に姉はゆくとふ
たたなはる砺波の山の上にしてひとひらの雲と昼月とあり
黄なる光(ひ)は渚の上に照りながら浜斑猫のかぎりなくをり
炎天の深き埃(ほこり)を横ぎるにこのかなへびはためらひなしも
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写真ACより、「ウィンタースポーツ」のイラスト1枚。



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 短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、第2歌集「鑿岩夫」を読み了える。
 第1歌集・
「どん底の叫び」は、今月19日の記事にアップした。
概要
 1930年、紅玉堂・刊。「どん底の叫び」と同じく、発禁となる。無産者歌人叢書。
 藤沢清造・序、西川百子・序、自跋を付す。
 この2歌集の間に、二松学舎専門学校・中退、本家・岡部家への婿入り(?)婚がある。なお幼くして母を亡くし、1929年に父を亡くしている。
 このような状況や、プロレタリア運動の自分への疑問から、等で「プロレタリア歌人同盟」を脱退した。
感想
 「解説」で「ただ勢いのおもむくままの叫びというものであるかもしれない。」と書かれるけれども、非定型ながら、レトリック的には、充分に練られた作品である。
 自跋で、「感動性、効果性について今後も深く考究して行くであらう。」と述べている。
 当時の労働者の思いを表現していたか、どうかは、僕は知らない。
 2歌集とも発禁とはいえ、大いに煽って撤退したあとの反動は、大きいものだったろう。
 それを凌いだのも、短歌の力であったか。

引用
 以下に5首を引く。なお(′)のついた語には、アンダーラインを引いた。
カンテラに命を懸けた一銭二銭の涙金、あつたかい仲間から寄せ集めた金が一円、汗でべとべとよごれた一円紙幣(さつ)でセメント樽の棺が出来た
おら、いい年齢(とし)して争議や、やめだ」「ええ!なにいふぞい」なあ製煉夫の辰公や、お前にや亜硫酸瓦斯でただれた声ふり絞って「足手まとひだがおらもまぜてくれ」おお!あの六十のお爺(やつ)さんのことが忘れたつてかい
ぶつつづけに続く業雨(ごふさめ)だ、トンネル長屋はむくれかへり床下まで泥水だ仕事はねい立つてもゐてもおられん嬶あはきんきん声でどなりちらすんだ
がちがち冷飯かつこんだ女工達(おれたち)は金網にへばりついて深呼吸だ、換気扇も廻つとらん工場の中は埃でもうもうだい
拘束(しよつぴ)かれる仲間を、ただれた赤い眼で、じつとにらむ父つあん、父つあんは ぶるぶる、み、み、身もだえするばつかつだ
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写真ACの「童話キャラクター」より、「桃太郎」のイラスト1枚。




 

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 青磁社「永田和宏作品集 Ⅰ」も、今月14日の記事「日和」で過ぎたので、「岡部文夫全歌集」(2008年、短歌新聞社・刊)を本棚より出して来た。
 全歌集・購入は、前ブログ「サスケの本棚」に拠ると、2016年5月23日の記事にアップされている。定価9千円を、「三月書房」より再販本で5千円(消費税、送料、込み)で買っている。19歌集+合同歌集より抜き書き+初句索引等を収める。
 1956年より晩年まで、福井県内に住んだ事が親しい。
概要
 岡部文夫(おかべ・ふみお、1908年~1990年)は、石川県志賀町に生まれ、1928年「短歌戦線」に参加。
 1930年、口語非定型の歌集「どん底の叫び」を出版し、発禁となる。
感想
 学生(二松学舎専門学校)の身で、肉体労働者の叫びを描き、レトリック的に優れている。
 しかし次の歌集「鑿岩夫」も発禁となり、行動を伴わない運動に疑問を抱き、「プロレタリア歌人同盟」を脱退し、歌誌「青垣」に拠ったとされる。

引用
 歌集「どん底の叫び」より、5首を引用する。なお(‵)の付された語は、アンダーラインを引いた。
ごみ人夫から溝さらひまで一万三千人のごつい総罷業さ、見れ!東京の街を泥にしてやる
(む)したての大福のやうにべとべと肉がくつつくのだ仲間の身体は手もつけられねいぜ(炭坑)
(つら)と手をまつ黒にして上つてくれや夕方だい、眼と歯が光つてゐらあな(煙突掃除夫)
みんながみんな歯ぎしりをかみしめて生☓しにされた同志の棺が黙然と行く
一日の血を搾られた生白(なまじろ)い女工の群が、どたどた吐き出されくる


 

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 角川書店「生方たつゑ全歌集」(1987年・再版)より、最後の第19歌集「漂泊の海」を読み了える。
 先行する
歌集「野分のやうに」は、先の6月28日の記事にアップした。
 この全歌集は、生前版なので、この後も歌集があり、現に1985年・刊の「冬の虹」を、僕は某古書店に注文している。
 「漂泊の海」は、1979年、短歌新聞社・刊。
 彼女の歌の功績に、抽象語・観念語の導入を前回は挙げたけれど、彼女は豊かな比喩を用い、象徴の域に達した歌がある。
 文学者を含めての周囲の応援と、自身のたゆみない努力の成果だろう。家庭的には、恵まれない面があったかも知れない。
 以下に7首を引く。
防風の痩せて貼りつきし砂原をふみつつ甦るわれの少女期
遭難碑海にむかひてたつ岬死の風景は明るすぎむか
弱音など吐かねど死(しに)は切なしよ君の遺品を分ちつつゐて
たましひに孤独ありやと思ひゐていたくはかなし生きゐる吾は
人を待つための春衣飾られし街あゆみきて雪のふる喪か
朝市のたちゐる中に売られゐる巻貝があり海藻があり
妬まれてゐるほどもなし馬鈴薯の芽をもげり微量の毒に魅(ひ)かれて
0-19
写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。



 
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 角川書店「生方たつゑ全歌集」(1987年・再版)より、「野分のやうに」を読み了える。
 先行する歌集
「灯よ海に」は、今月15日の記事にアップした。
 「野分のやうに」は、1979年、新星書房・刊。
 彼女は、観念や幻想の世界を詠うのではなく(能に題材を採った連作を除き)、日常詠、旅詠に観念語、抽象語を導入した功績がある。
 群馬県沼田の旧家に嫁いだ、閉塞感だけではない。生方たつゑ(1904年~2000年)はその前、1926年より東大哲学科聴講生として学んでおり、観念・抽象への志向があり、摂取した事もあったのだろう。
 この歌集は、夫への挽歌として賞揚されているが、挽歌は最後の「野分のやうに」の章の「喪」の節のみである。
 以下に7首を引く。
夜の潮に島も燈火もなきはよし過誤かたよせて吾もねむらむ
人恋ひて通ひし道か八重葎花火のやうに花爆ぜるみち
死後のことやすやすと言ふわれらなり亀裂入りたる壁の中の部屋
稀釈されて生きゆくことも切なしよ患みゐる夫も看取るわたしも
累層をなして棕櫚の花の黄が和解のごとく房垂りてゐる
雪しろが石突きくだすひとところ川も険しき貌をなさむか
半眼となりしまぶたを撫でながらいのち熄みゆくを知るてのひらか(喪)
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写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。






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