風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

 このブログを運営している新サスケは、2017年10月17日付けでのAmazonのKindle本、第4詩集「詩集 日々のソネット」(縦書き)の発行に続き、第5詩集「改訂版 ソネット詩集 光る波」(縦書き)を、2018年5月31日、Kindleストアにて発行しました。著者名は、柴田哲夫(僕のペンネームの1つ)です。
 2011年10月1日・刊の紙本「ソネット詩集 光る波」に、数十ヶ所の加筆をし、編集しました。
 販売ページは、Amazonの「Kindleストア」カテゴリーで、「柴田哲夫 ソネット 光る波」と入力して検索してくだされば、即で見つけられます。右サイドバーのバナーよりも着けます。
 kindle版で540円(税込み)、kindle unlimited版も発行しています。
 次回の無料キャンペーンを、9月初め頃に予定しています。

吉野弘

 青土社「吉野弘全詩集」(2015年2刷)より、第11詩集「夢焼け」を紹介する。
 先行の
「北象」「自然渋滞」は、今月16日の記事に紹介した。
 「夢焼け」は、1992年、花神社・刊。4章に分け、27編を収める。
 巻頭の「元日の夕日に」では、「元日の夕日を、どう呼んだらいいか/私はわからずにいます」と書くけれど、元日の朝日を「初日」と呼ぶから悪いので、正式には「初日の出」であり、元日の夕日は「初日の没(い)り」と呼べば良いと、僕は考える。
 この時代に俳句をたしなんだらしく、その経験が「俄(にわか)俳句教室」、「秋景」、「冬の鳩に」等に現れている。
 標題作の「夢焼け」では、文選工のミスを咎めず、夢に焼かれている人間、という1面を表わした。
 「漢字喜遊曲」の流れの作品もある。
 生前の詩集としては、これが最後である。このあと、詩画集、写真詩集の出版はあったけれども。
 またこの本の巻末近く、未発表詩篇選があり、初出の最後は1995年頃である。「歌詞一覧」と共に、ここでは取り上げたくない。
 没年の2014年まで、彼は詩を書かなかったのだろうか。体を悪くしたのか、このような形で詩よりフェイドアウトして行ったのかと思うと、歌人たちの場合と比べて、詩人として侘しい。
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写真ACより、フラワーアレンジメントの1枚。



 青土社「吉野弘全詩集」(2015年2刷)より、詩集「北象」「自然渋滞」を読み了える。
 先行する詩集
「陽を浴びて」は、今月9日の記事にアッした。
 「北象」は、銅版画と対で10編を収め、1985年、「アトリエ・楡」刊、限定50部。内7編を既刊詩集より再録し、1編を「自然渋滞」に再録したので、この全詩集・版では2編のみとなっている。自然の擬人化がなされる。
 「自然渋滞」は、1989年、花神社・刊。3章に分けて、37編を収める。
 第Ⅰ章の「少し前まで」、「風流譚」、「竹」、「鴨」等は、自然を擬人化して、また自分と比べて、機智を効かせている。「紹介」は、自身のお孫さんの紹介らしく、「お通じ、あります/よく眠ります/夜泣き、しません/寝起き、ご機嫌です」と爺ばかぶりを発揮している。
 「雨飾山(あまかざりやま)」以降の4編は、以前からの叙景詩の続きだろう。芭蕉の言葉とされる「名人は危うきに遊ぶ」の域に達していると、僕は思う。
 第Ⅱ章は、僕の嫌いな「漢字喜遊曲」系統の詩が並ぶ。
 第Ⅲ章の「冷蔵庫に」、「Candle's Scandal」は、叙景詩で得た手法で、家具を擬人化した。最後の「最も鈍い者が」は、「言葉の息遣いに最も鈍い者が/詩歌の道を朗らかに怖さ知らずで歩んできた/と思う日//…」と始まり、「言葉の道に行き昏れた者」の嘆きを綴る。
 「あとがき」に拠ると、第10詩集とされる。
チューリップ7
Pixabayより、チューリップの1枚。




 青土社「吉野弘全詩集」(2015年2刷)より、第8詩集「陽を浴びて」を紹介する。
 第7詩集
「叙景」は、先の3月26日の記事にアップした。
 原著は、1983年、青土社・刊。7章に30編を収める。
 第1章の「一夜」には、次のような連がある。「…//――つまらん/顔を上げて、著者が呻いた。…//著者は己の無能を罵倒しそうになりかけて/それができなかった/守護霊が押しとどめていたのだ」。
 第2章の2編は、電車のホームでの2景である。かつての「夕焼け」を思わせる。
 第3章4編は、前詩集「叙景」で充分でなかった、叙景の詩の展開だろう。
 第5章にもある、「漢字喜遊曲」のシリーズを、僕は好まない。字面遊びを好まないから。
 第6章は、電車での思いや、娘たちに仮託して、幸せへの望みを描く。「秋の」以下の6編は、叙景詩の完成であろう。
 「秋の」は、次のように始まる。「秋の方向は/どちら?//答のように/枯葉が散る//…」。
 第7章は「スケッチ」1編のみで、鼻を空に差しこんだような黒い犬が、詩人の姿を思わせる。

チューリップ5
Pixabayより、チューリップの1枚。


 青土社「吉野弘全詩集」(2015年2刷)より、第7詩集「叙景」を紹介する。
 第6詩集
「風が吹くと」の紹介は、今月11日の記事にアップした。
 「叙景」は、1979年、青土社・刊。4章22編を収める。
 自身の「あとがき」で、叙景詩について「パート1に、それらしいものを収めたが、とても叙景詩などと呼べるしろものではなく、…」と述べている。叙景詩を創作する意図の元は、詩誌「櫂」での連詩の試みと、選をする投稿詩に作者の思いで溢れ…情景や事物の質感は見当たらないことであった、と述べた。
 叙景歌は多くあり、叙景詩があってもよく、古井由吉には叙景小説とも呼べる作品「島の日」があるが、あと2つとも困難な道だろう。
 第1章の終い「木が風に」は、「蜜月の喃語に近く/意味を成さない囁きをかわし、戯れ、睦み合い/木と風は互いに飽くことがない。」と自然を暗喩にしている。
 第2章の「白い表紙」は、電車の中で育児書を読む娘さんを描いて、「母親になる準備を/彼女に急がせているのは/おなかの中の小さな命令――愛らしい威嚇/彼女は、その声に従う。/声の望みを理解するための知識をむさぼる。」と、優しいいたわりの思いを寄せている。
チューリップ1
Pixabayより、チューリップの1枚。


 青土社「吉野弘全詩集 増補新版」(2015年2刷)より、詩集「風が吹くと」を読み了える。
 先行する
詩集「北入曽」は、今月6日の記事にアップした。
 原著は、1977年、サンリオ・刊。
 なおこの詩集は、若い人向けに35編(内、旧詩集より22編)を、詩画集として編んだものである。
 詩人が51歳になって、若者向けに詩画集を、読みやすいように、などと企画して良い事はない。詩人の意図が善意であったとしても。
 「運動会」では、「ころんで血を噴く傷口も/心の傷と無関係なのが、いい。」と書くけれども、例えば鬱病と身体不調の関連は、知られている事である。
 「ウエスト」では、「誰へ/贈られる花束ですか あなたは?//誰かが/花束の紐をほどいたら/その手の上に/身を投げ出しますね/…」と、女性の社会活躍の著しい現在から見ると、古めかしい。
 しかしこの詩集には、広く人に知られている「祝婚歌」が、初収録されている。「二人が睦まじくいるためには/愚かでいるほうがいい/立派すぎないほうがいい」と始まり、異論があるかも知れないが、一面の真実を衝いている。
 吉野弘には、この「祝婚歌」や、「夕焼け」など、突出して優れた作品がある。
椿7
Pixabayより、椿の1枚。


 青土社「吉野弘全詩集 増補新版」(2015年2刷)より、第5詩集「北入曽」を読み了える。
 第4詩集「感傷旅行」は、先の2月25日付け記事にアップした。
 原著は、1977年、青土社・刊。6章に分け28編を収める。
 2番めの詩に「漢字喜遊曲」があり、「母は舟の一族だろうか/……幸いの中の人知れぬ辛さ/…舞という字は/無に似ている/…」と続く。僕は字面に拘る事、言葉遊びが嫌いだ。10余年詩より離れて戻って来た時、自分のレトリックを重ねた詩が嫌になっていた。「人の心に最も疎い者が詩人になる。」という箴言に出会って打たれた。詩人は、言葉の専門家ではなく、心の専門家でなければならない。文字にも声にもならない思いを、拙い言葉に出して、詩と短歌と読書感想に綴るばかりだ。
 「鏡による相聞歌」では、女性に成り代わって自身を鏡に喩え、「あなたが くぐらねばならぬ柵/それなのに/あなたは立ちすくんでいらっしゃる/砕かれることさえ/わたしは怖れていないのに」と古風な1つの思いを表わしている。
 「ほぐす」では、小包の紐をほぐす時に喩えて、「――結ぶときより、ほぐすとき/少しの辛抱が要るようだと」と、結ぼれた心をほぐす難しさを描く。
 「樹」では、「身近な者同士、許し合えぬことが多いのは/枝と枝が深く交差するからだ。/それとは知らず、いらだって身をよじり/互いに傷つき折れたりもする。」と、近親の不和の元を晒す。
 第Ⅵ章3編では、社会的関心を描いている。彼の抒情性と社会的関心が共に溶け合った作品を読みたい。
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Pixabayより、椿の1枚。



 青土社「吉野弘全詩集 増補新版」(2015年2刷)より、第4詩集「感傷旅行」を読みおえる。
 
第3詩集「10ワットの太陽」は、今月19日付けの記事に感想をアップした。
 原著は、1971年、葡萄社・刊(著者・45歳)。1972年、読売文学賞・受賞。
 詩集は、2部9章に分け、55編の詩を収める。
 「営業」では、スポンサーとの宴席で「果然/貴公子・若社長が言った。/<あと二つや三つ、倒産してもらわないと/これまでの苦労の甲斐がない>…重い眠りへ グラリと傾き乍ら/私は自嘲して呟いた/実業に処を得ざるの徒、疲れて眠る、と。」と仕事(コピライター)の非実業ぶりを嘆いた。
 「妻に」では、嵯峨信之の詩「広大な国―その他―」に反論しようとするが、「人間」を自然、人類、個人として、と分けて考えれば、嵯峨の言が当たっているように思える。
 「熟れる一日」では、「空にいらっしゃる方(かた)が/大きなスプーンで/ひと掻きずつ/夕焼けを/掬って 召しあがるのか」と、有神論へ傾く。「石仏」では同じく「ふりかえると/人はいなくて/温顔の石仏三体/ふっと/口をつぐんでしまわれた。…」と書く。
 「飛翔」では「ふりはじめのとき、雪は/落下を一瞬、飛行と思い違えた。/―むりもない、二つは似ている/しかし、すぐに同意したのだ、落下に/…」と詩人の自覚的な心象のようだ。
 詩集の末に、後記「挨拶ふうなあとがき」と略年譜を付す。
梅6
Pixabayより、白梅の1枚。


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