風の庫

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思潮社

 思潮社の現代詩文庫155「続・辻征夫詩集」より、「未刊散文作品」2編と、「エッセイ・対談」6編を読む。
 先行する詩集、「俳諧辻詩集」から、は今月24日の記事にアップした。

 リンクより、関連旧記事へ遡り得る。

 「散文作品」の(1)は、「透明な地図—遠い岬」である。「ぽっかり空に浮かんでいる、白い雲。ああいうものがぼくは好きで、ほかのものはほとんど嫌いで、・・・」。詩人とは、異性の顔よりも雲を眺めているのが好きな人だ」という俗説に従えば、辻征夫は少年時代から詩人である。海辺のビーチパラソル下の、妻、娘2人との場面に移って、近くの娘さん達に羨ましがられる。でも早熟だった長女は、5歳になる前に大病をして、後遺症を恐れられている。前日、肺癌後期(手術しなければ余命半年)の父の、治療の方針決定を迫られてもいた。
 (2)は「越路吹雪」である。越路吹雪のエピソードを引きつつ、詩集発行という踊り出しを語る。「作品は作品に支えられ、・・・」と、詩編の関連付けを意識している事がわかる。

 エッセイは4編である。「むきだしの悲しみ—中原中也の詩」は、喧嘩を含む奇行で周囲を悩まし、30歳で逝いた中原中也の心性を探る。詩を引いたあと、「かつてのダダさん、中原の到達点の深さを感ずるのである。」と称揚するけれど、宗教がかった境地で、僕は採らない。僕は6巻本の「立原道造全集」と「中原中也全集」を持っており、立原道造6巻は通読したが、中原中也6巻は押し入れの中である。
 「立原道造という装置」は、立原道造と辻征夫自身の共通点の多さに驚いている。「おそらく、詩人とはその時代の言葉が通過する場所であり、装置であろう」という捉え方を僕はしない。立原道造の優れる点は、先の戦争の更にその先(恐らく敗戦後)を見透していた所にある、と僕は思う。
 「遊びごころと本気」は、余技だったろう俳句の座を書く。「詩の話」は、立原道造論と同じ主張である。

 対談・木原涼と(1978年)「おしゃべり黄巻紙」と、対談・富沢智と(1997年)「詩はどこにあるか」の内容は、これら現代詩文庫2冊で、知られている事柄が多い。
 辻征夫への「作品論・詩人論」4編は、親しみ過ぎて軽んじるようで、受け入れがたい。これで現代詩文庫「続・辻征夫詩集」の仕舞いである。
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 写真ACより、「ビジネス」のイラスト1枚。




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 思潮社の現代詩文庫155「続・辻征夫詩集」より、「俳諧辻詩集」から、を読み了える。
 先行する詩集「河口眺望」は、今月20日に記事アップした。

 リンクより、過去の詩集感想記事へ、遡り得る。

 「誹諧辻詩集」から、には春夏秋冬4章に分けて、18編の詩を収める。詩集題にあるように、作品題の前後あたりに自作の俳句を配している。
 辻征夫と句作の関係は、今年2月23日の記事、彼の句集「貨物船句集」の感想で述べた。


 この詩集の目論見は、成功していないように思える。彼は月1度の「余白句会」で点数などを競ったのみで、俳誌に参加しなかったようだ。詩人の多い「余白句会」で競って、新奇な俳句を作した。新奇な俳句は、句集にまとめられて良いが、詩に配されては印象が良くない。「橋」では背景設定が時代小説の中だったりする(生活感情が細かくわからない時代小説では、美談が幾らでも書ける)。
 神経症的な「葱」では、「ちがうあいつはいまむこうをむいたんだ/葱に顔をそむけられちゃあ/おしまいだなって…」と綴る。
 「夏館」では、曾祖父から祖父、母に至る家系を辿る。詩人は知らないが、作家は大成すると、血族史、一族物語を書き、上がりとなる。(暗い宿命を背負った三浦哲郎は別である)。
 「下駄」では亡き父の下駄を履いて懐旧する。僕は親族の死を、挽歌に書き尽くして、あまりしみじみ思い出さない。
 「落葉」の1行に共感した。「頭
(こうべ)に白髪(はくはつ)を置き 子の行末に思い悩みつ」。(娘の1人が5歳の時に大病をしたらしい)。かつて僕も思い悩んだ。しかし「半生は…束の間だった」とは思わない。
 俳句を配したこの詩集の手法は、成功と言い難い。この後、詩人はこの手法を採らなかった。
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写真ACより、「ビジネス」のイラスト1枚。



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 思潮社・現代詩文庫155「続・辻征夫詩集」より、5番めの「河口眺望」全編を読み了える。
続・辻征夫詩集 (現代詩文庫)
辻 征夫
思潮社
1999-02T

 先行する、「ボートを漕ぐおばさんの肖像」から、は先の4月29日に記事にアップした。


 「河口眺望」には、全16編の詩を収める。1993年、芸術選奨文部大臣賞、詩歌文学館賞を受賞した。
 この詩集には、それほど優れた作品は多くなく、大きな賞にふさわしいかわからない。
 ただ「おばさんには…たよりない子供の影も見えていて/その子がやがて/<ボートを漕ぐおばさんの肖像>という/いくつかの詩を書くのである」(「ボートを漕ぐおばさんの肖像」から、「遠い花火」より)と、少年時代の自分と大人の自分を、二重写しにして、ノスタルジーをそそる内容がある。
 「河口眺望」では、「電車と霙の雑木林」で、電車に乗る「子供のときのわたくし」と40年後に同じ電車に乗る自分を重ねて、感慨を醸す。
 「海雲台」、「孝子洞」、「豚祭」の3編は、韓国を訪れた際をテーマとし、庶民的な社会性とエロチシズムを描く。
 「突然訪れた天使の日の余白に」の「一九三九年」の章では「わが家ではすでに長男が死んでいた/もしかれが死ななかったらぼくは/生まれなかったにちがいなくて」と、3つ前の詩集「鶯」の冒頭、「突然の別れの日に」のテーマの謎解きをするかのようである。兄の夭逝が、フィクションの可能性は残る。


 戦後詩の「荒地」と「列島」の衰えのあと、評価されるに至った抒情詩人である。
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写真ACより、「ビジネス」のイラスト1枚。



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 思潮社の現代詩文庫155「続・辻征夫詩集」より、「ボートを漕ぐおばさんの肖像」から、を読み了える。この文庫には、同・詩集より、9編を抄出している。
 先行する「ヴェルレーヌの余白に」は、今月25日の記事にアップした。


 「ボートを漕ぐおばさんの肖像」から、には詩集「かぜのひきかた」から、に出て来る、詩人の胸に住み着くヘレンおばさんの変形が幾つも出て来る。


 「ボーとを漕ぐ不思議なおばさん」では、「ぼくのおばさんはまだ/遠くにいて/いっしょうけんめいボートを漕いでいる」と詩人に好意的なおばさんが現れる。
 「浜木綿のかげに運動靴を置いて」では、「夏のあいだ/海には不思議なおばさんがいて/ぼくを見ていてくれたので」と、「ぼく」もおばさんに感謝の念を抱く。
 以下、不思議なおばさんは、「冬は風と夢の季節で」、「雲」、「ぼくの物語が書いてある本の」、「降りしきる雪の中で」、「おじさんがいっぱい」、「遠い花火」の各編に現れて、詩人を慰め諭してくれる。
 辻征夫の詩には、詩集を違えて、同じ人物や、テーマの解説が表され、詩想の深まりを感じさせる場合がある。
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写真ACより、「ビジネス」のイラスト1枚。




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 思潮社の現代詩文庫155「続・辻征夫詩集」より、詩集「ヴェルレーヌの余白に」全編を読み了える。
 先行する「鶯」から、は今月20日の記事にアップした。


 「ヴェルレーヌの余白に」(1990年、思潮社・刊)は、16編の詩を収める。
 「これはいにしえの嘘のものがたりの」は、同級生だった女の子が芸妓になり、水揚げの日、悪友4人が集まって初めて大酒を飲み、げろを吐いたと言う、同級生の友情の物語である。もちろんフィクションの可能性が高い。
 「蛇いちご」は性の和合、「六番の御掟について」は性の不和の、象徴のように読める。
 表題作の「ヴェルレーヌの余白に」は、題名の優雅さに似つかない結末となる。「をぐらき庭のかたすみに/襤褸のごとく/われは吐瀉物にまみれて凍へてをりぬ。……」。次ぐ「レイモンド・カーヴァーを読みながら」も、酔いの失態を思い出している作品である。
 「春の海」は、「春の海ひねもすのたりのたり哉」から海獣「ヒネモス」を、カラスの古巣の歌詞から「フールス」をひねり出したりしながら、苦しい失恋を描いている。これは後の作品によると、リアルな経験だったらしい。
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写真ACより、「ビジネス」のイラスト1枚。



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 思潮社の現代詩文庫155「続・辻征夫詩集」より、3番めの「鶯」から、を読み了える。
 先行する「かぜのひきかた」から、は今月9日の記事にアップした。


 「鶯」は全16編である。「こどもとさむらいの16編」と副題があるからだ。うち9編を、この文庫は抄出している。
 冒頭の「突然の別れの日に」は、「知らない子が/うちにきて/玄関にたっている」と始まる。母はその子を迎え入れ、僕は声が出ない。僕はこのうちを出て、ある日別の子供になって、よそのうちの玄関に立つ宿命を知る。とても暗示的な詩である。小市民の良い子は、取り替え可能なのか。僕ではない、他の子が産まれても良かったのか。あるいは早いながら、自分の死を意識するようでもある。
 「鶯」は散文詩で、逆の立場のようだ。「十歳になろうかという女の子が一人、ぼくの家の玄関に立っていて、」と始まる。女の子は僕を非難するけれども、それは僕の幼年時代の仲間で、昔を忘れ損なっている。「あんまり大きなかなしみや苦悩はぼくには向かないから、」と困っている。そこへ妻が現れ、他に誰もいない風に振舞う。女の子は、幼年時代の純粋と悲惨を、象徴するようだ。あるいは少年少女時代に、敗戦の世相急変についてゆけなかった子かも知れない。
 「かみそり」「ちるはなびら」「どぶ」が、ひらがなばかりの作品で、僕に引っ掛かる。
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写真ACより、「ガーデニング」のイラスト1枚。


 

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 思潮社の現代詩文庫155「続・辻征夫詩集」より、2番めの「かぜのひきかた」から、を読み了える。
 1番めの「天使・蝶・白い雲などいくつかの瞑想」から、は今月3日の記事にアップした。


 「かぜのひきかた」から、は詩集より5編の抄出である。詩編の総数は、検索ではわからない。
 「まつおかさんの家」、「かぜのひきかた」、「桃の節句に次女に訓示」の3編の中身は、平仮名ばかりで書かれている。平仮名の詩は、山村暮鳥にもあった(室生犀星「我が愛する詩人の伝記」に依る)が、詩の心の衰えとされる。辻征夫の詩にはその評価を跳ね返す強さのある作品もある。
 「まつおかさんの家」では、6歳の「ぼく」が登校途中の「まつおかさんち」の前で泣きたくなり、後に「弟」は大声で泣き出してしまう。小市民から、貧しい「小さな小さな家」の庶民へと転落する未来を、予感したのだろう。
 「かぜのひきかた」では、人に「かぜかい?」と尋ねられて、風邪でないのに抗えず「かぜです」と答える、気の弱りを表す。他人に抗えない、弱さと純粋さである。
 「ヘレンおばさんこんにちは」は、いつか詩人の胸に住み、親しく会話する「ヘレンおばさん」の登場である。後の詩集「ボートを漕ぐ不思議なおばさん」には、何編も架空の親しい「おばさん」が現れる。
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写真ACより、「ガーデニング」のイラスト1枚。




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