風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

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文学

 結社歌誌「コスモス」内の若手歌人による、季刊同人歌誌「COCOON」Issue19を、ほぼ読み了える。
 同・Issue18の感想は、昨年12月30日の記事にアップした。


 リンクより、過去号の感想へ遡り得る。

 同・Issue19の到着は、先の3月20日の記事、届いた3冊を紹介する(11)にアップした。


COCOON Issue19

 気になった歌を引いてみる。
目薬をさすとき海鳥はばたけりこころから言葉とほのきにけり(K・智栄子)
 こころから言葉が遠のいては、文学を目指すものの表現が成り立たない。安倍長期政権の、虚言、詭弁が残した傷は広く、表現を志す者を苦しめている。
臍の下に光ためつつシャワー浴ぶ明日を語れば鯰
(なまづ)が笑ふ(M・左右)
 来年の事ではなく、明日を語ってさえ鯰が笑うほど、良い明日、幸せな未来を想定し得ない、不幸な時代だ。




 
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 鷺沢萠の留学体験記「ケナリも花、サクラも花」を読み了える。
  鷺沢萠の本はわずかに読んだ気がするが、この「風の庫」になく、タブレットでは前ブログ「サスケの本棚」にログイン出来ないので、確認できない。(追記:その後、「サスケの本棚」にログイン出来て、「帰れぬ人びと」「駆ける少年」の感想を見つけた)。

ケナリも花、サクラも花
 新潮文庫、2000年3刷、184ページ。
 1993年1月~6月まで、韓国の延世大学に語学留学した体験記である。留学の契機は、父方の祖母が韓国人であり、自分がクォーターだと知った事という。
 親しい韓国2世、3世に囲まれ、悪辣なジャーナリストにうんざりしながら、10円ハゲを作るほど苦労して、2学期間を学んだ。

 鷺沢萠(さぎさわ・めぐむ)は、1990年に結婚し、翌年に離婚した。2004年に35歳で自死した。理由は文学的に行き詰まったのだろう。多くの読者がありながら、大きな文学賞を獲れなかった。彼女の突き詰める性格と、社会の成り行きが望んだ方向と違っていた事が原因と思われてならない。

 彼女は上智大学ロシア語科を除籍になったけれども、人生まで中退しなければよかった。「戦わない者が勝つ」のかと、微かに憤る。

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 先の7月6日の記事、入手した5冊(2)で紹介した内、「続続 荒川洋治詩集」に読み入る。5冊の内、残った1冊である。
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 思潮社・現代詩文庫242。2019年6月15日・刊。定価:1,500円+税。
 7冊の詩集からの抄出、未刊詩編7編、散文、等より成る。

 まず詩集「一時間の犬」より、15編。
 彼の詩は難解とされるが、講演の時の様子や内容から、解ってくる事もある。
 彼はユーモア好きで、愛想も好く、文学には芯の通った考えがある。

 「ベストワン」より。「私は生きている/同情と共感でおどろき嘆きかなしむが/私は二度と生きたりしない」。同世代の者へだろう、同情と共感を持っている。しかし「生き直したりしない」という意味だろう。生き直す、と思った自分に痛い。
 「ギャラリー」より。運動が苦手なのか、主人公はブランコを上手く漕げない。恋人に見つめられて、しぶしぶ漕ぐ、遣る瀬無さである。
 「土の上を歩くのですから」。土の上を歩く者が、荒れ狂う水上の船に乗る者たちを見ている。終2連は「めざめて わたしは泣くだろう/焚火のまえで//あの人は?と/両手をついて」。詩人にも両手をついて「謝する者」(感謝、詫びる、共に)が居るのだろう。
 「資質をあらわに」では、モーツァルトの曲を目覚ましにする、物質的に豊かな時代を、「人にはもはや成すことも することもないのだ」と批判する。


 僕の解説では、よくわからないだろうが、読者は共感する所を探してゆくしかない。



 
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 今日2回めの記事更新です。
 高校文芸部の年刊部誌「白房」1968年号より、僕の初期小説「底流」の(2-3)を、HP「サスケの散文サイト」に転載しました。
 拙いものですが、よろしければお読みください。県出身の芥川賞作家・多田裕計氏が評価して下さったようで、当時は大学生の現代詩作家・荒川洋治氏を通して、「大学に進んでも文学を続けるように」との言伝てを頂きました。実際の僕は、逸れて行った訳ですが。
 アドレスは以下の通りです。

masakyf-diary.amebaownd.com/posts/6730461

 上のアドレスは、フィッシング防止等のため、2,3日でリンクが切れます。その場合は、初期小説「底流」の(2-3)に貼ったリンクよりお越しください。


09
写真ACより、「恐竜」のCG1枚。
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 6月8日(第2土曜日)の朝10時より、講座「福井が育む文学を訪ねる」第2回が、福井県立大学永平寺キャンパスの1室で催された。
 同・第1回は、先の5月26日の記事にアップした。
 今回も受講者は、予約定員の30名を越えたようだ。
第1講座 「福井ゆかりの詩人たち」
 講師は、詩人(詩集・受賞・多数、詩誌「木立ち」代表)の川上明日夫さん。
 近代以降の福井の詩人として、三好達治(寄寓)、中野重治、高見順(2、3歳で福井県を離れる)、則武三雄(鳥取県・生まれ)、広部英一、荒川洋治を取り上げ、それぞれの業績を評価した。
 また福井を離れた詩人、福井に寄った詩人、福井で定住者の文学を提唱した詩人、それぞれが福井の地を愛した事を挙げた。
 川上明日夫さん自身も、幸福な状況で詩を書いて来れたとしながら、旧・満州生まれで引き揚げた、故郷喪失者である事を告げた。
第2講座 「ふるさと再発見」

 講師は、詩人、児童文学作家の藤井則行さん(ふくい児童文学会・代表)。
 伝説「きつね塚」(母親から聞いた話)と、昔話「けい坊・はい坊・あんだ坊」(勝山市で採話)を例に、伝説と昔話の違いから説き起こし、昔話の研究から得られた、特質を述べた。「昔、ある所」と始まる(どちらかが省略される場合がある)、会話の文と地の文(行動を表わす)で成っている事、ほとんどハッピィエンドである事、教えとして度胸・知恵・機転がある事などを挙げた。その因として、庶民に語り継がれた話であり、願望が込められていると結論した。
 現代の創作童話にも、それらの研究を活かしたいと述べて、締め括った。
 時間が30分ほどオーバーし、12時半頃に散会した。


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永平寺キャンパス・講座

 5月25日午前10時より12時までの予定で、講座「福井が育む文学を訪ねる」第1回が、福井県立大学永平寺キャンパスの1室で催された。参加した文学の催しとして、今月20日の記事、荒川洋治さん芸術院賞・恩賜賞祝賀会以来である。
 講座開始前は参加者が少なく、淋しい会になるかと思われたが、定刻直前に聴講者が続々と集まり、定員30名を越え、後ろ部屋との仕切りを外し、机・椅子が2列、追加された。
第1講座
 三方郡美浜町よりおいでの、民俗学者・詩人の金田久璋さんによる、「文学に見る若狭・越前の民俗世界」。
 福井県の成立から説き、越前が若狭を低く見る風潮を批判する。
 また山の神・田の神を祀る風習、土葬、まじないの言葉等を紹介し、AIの時代に昔からの民俗が消えて行く事を嘆いた。

第2講座
 時間が押して、11時15分頃より、定道明さんの講座。「福井の文学者達 ~下からの目線と経験主義~」。
 水上勉が自伝的文章「土を喰う日々」「私の履歴書」でも明らかにしなかった事で、生家跡などに立つと、判る事と想像される事がある、と述べる。生家の小屋が墓地の隣りだった(墓地は普通、人家を離れて造られる)事が判り、9歳で寺に預けられたのは「口減らし」のためと想像される、と述べた。
 中野重治の「空想家とシナリオ」の1部を挙げながら、転向後の彼を「プロレタリア文学者」と1括りにしないでほしい、彼は第3の道を模索して苦闘したと、中野重治・研究家らしい言葉だった。
 浜口国雄の詩「便所掃除」、岡崎純の詩「田螺考」を挙げて、福井県出身の文学者の、下からの目線を説いた。
 12時半頃に、第1回の講座を了えた。楽しみにしていた県大レストランは、休日には開いていなかった。


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 今月20日の記事「詩集と同人歌誌」で入手を報せた内、同人歌誌「COCOON」Issue07を読み了える。
 
同・Issue06の感想は、昨年12月28日の記事にアップした。
概要
 2018年3月15日・刊。81ページ。
 発行人・大松達知、編集協力・小島ゆかり。同人(1965年以降・生まれ)27名。
感想
 政治家の出鱈目な言動によって、真実を述べる文学の言葉は攻撃されている。しっかりした家庭と、しっかりした境地を持たないと、短歌も崩れる。若い人に、その被害は大きいようだ。
 たとえばM・竜也さんの「何もかも忘れてみようそうしよう私はバカでバカは尊い」などの、ユーモアでない自虐へ至ったりする。
引用
 S・美衣さんの「くっつき虫」6首より。
風船の尾を摑まんと手の中のたましひの緒を放してしまふ
 家庭の幸福のために犠牲になったり、株価のために選挙投票して、自分を見失いがちの時代だと僕は思う。
 K・絢さんの「白湯」12首より。
子の靴を脱がせてバスに座らせるとき少しだけ母ぶっている
 子と間隔を置き、自分を客観視する事で、ユーモアを滲ませている。後記「繭の中から」ではそれでも、夫との関係に悩む姿が見える。


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