風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

 このブログを運営している新サスケは、2017年10月17日付けでのAmazonのKindle本、第4詩集「詩集 日々のソネット」(縦書き)の発行に続き、第5詩集「改訂版 ソネット詩集 光る波」(縦書き)を、2018年5月31日、Kindleストアにて発行しました。著者名は、柴田哲夫(僕のペンネームの1つ)です。
 2011年10月1日・刊の紙本「ソネット詩集 光る波」に、数十ヶ所の加筆をし、編集しました。
 販売ページは、Amazonの「Kindleストア」カテゴリーで、「柴田哲夫 ソネット 光る波」と入力して検索してくだされば、即で見つけられます。右サイドバーのバナーよりも着けます。
 kindle版で540円(税込み)、kindle unlimited版も発行しています。
 次回の無料キャンペーンを、9月初め頃に予定しています。

現代俳句大系

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 角川書店「増補 現代俳句大系」全15巻も読み進んで、第13巻(1980年・刊)に入る。第13巻より増補巻に入るらしく、第12巻が(1959年~1968年)であったのに対し、第13巻は(1964年~1971年)と、1部遡って句集を採っている。
 第13巻の初めは、古賀まり子「洗禮」である。第12巻のしまいの句集、
石田波郷「酒中花」は、今月3日の記事にアップした。
概要
 原著は、1964年、麻布書房・刊。
 水原秋桜子・序文、438句、藤田湘子・跋文、自筆後記を収める。
 古賀まり子(こが・まりこ、1924年~2014年)は、1946年より秋桜子「馬酔木」に参加、秋桜子没後は堀口星眠・主宰の「橡(とち)」に参加した。
 結核病のため、1949年、清瀬病院入院、死の淵をさまようが、母の作ったお金で当時まだ珍しかったストマイ(抗生物質ストレプトマイシン)7本を打つ等に拠って回復した。
 1952年、洗礼を受け、1956年の退院後は横浜スラム街の療養所に勤務するなどした。

感想
 俳句、医学、信仰の救いを感じさせる句集である。「短歌は自己救済の文学である」と伝わるけれども、ある人にとっては俳句も同様かも知れない。医学の進歩の恩恵は、僕も受けている。
 信仰の救いは、生きがたい人にとっては拠り処であろうが、僕はあまり信用していない。
 前半「清瀬」は闘病俳句として、後半「運河のほとり」は献身の俳句として、感銘の残る句集である。
引用
 以下に5句を引く。
酸素吸ふ梅雨夕映に汗ばみて
麦青む日々を咳きつつ細りゆく
病みし過去しづかに隔て雪積る
眉寒く若し父母の名秘めて死す(放浪中病を得し人夫あり)
雲夕焼童顔人夫日銭得て




 
 

 角川書店「増補 現代俳句大系」第12巻(1982年・刊)より、14番目の句集、秋元不死男「万座」を読み了える。
 先行する
「定本 木下夕爾句集」は先の11月28日の記事で紹介した。
概要
 原著は、1967年、角川書店・刊。1950年~1966年の826句、「あとがき」を収める。第3句集。
 同「大系」第8巻より、
第2句集「瘤」については、前ブログ「サスケの本棚」の2014年1月15日の記事で紹介した。
 秋元不死男(あきもと・ふじお、1901年~1977年)は、戦後1947年、「現代俳句協会」設立発起人となる。1948年、山口誓子・主宰の「天狼」創刊に参加。1949年、同・系の「氷海」創刊のち主宰。
 1961年、「現代俳句協会」脱会、「俳人協会」設立に参画。
感想
 俳句を生業として生きる決意が、句で吟じられている。
 句集「瘤」の時代から、「降る雪に胸飾られて捕へらる」の句のように、暗喩を用いた作に長じていた。
 しかしそれらレトリックも過ぎると、論語「巧言令色鮮(すくな)し仁」の諺のように、滋味少ないように感じられる。
 苦労をかけた妻が、彼の句を褒め、彼の行動を支えたようで、羨ましい点ではある。
 俳句を生業としながら、収載句数は別として、生涯に4冊の句集しか持っていない。1980年、「秋元不死男全集」全2巻(角川書店)がある。
引用

 以下に5句を引用する。
冷されて牛の貫録しづかなり
電工のいちにち高し原爆忌
悔と言ふ語音短し寒(かん)長し
まだ死ねぬ泥濘凍てて星揃ふ
鷗らに円遊の浮標(ブイ)年暮るる
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写真ACの「童話キャラクター」より、「白雪姫」のイラスト1枚。




 角川書店「増補 現代俳句大系」第12巻(1982年・刊)より、8番目の句集、小杉余子「余子句抄」を読み了える。
 今月7日の記事、
西東三鬼「変身」に次ぐ。
概要
 小杉余子(こすぎ・よし、1888年~1961年)は、1935年、松根東洋城・主宰の「渋柿」を離れ、「あら野」に拠る。戦後、復刊するが長続きせず、俳壇と没交渉となった。
 原著は、1962年、ヒゲタ・なぎさ句会・刊。ヒゲタ・なぎさ句会は、ヒゲタ醤油の社員の句会で、彼が指導していた。
 尾崎迷堂・序、1025句、川越蒼生・跋を収める。
 先行する「余子句集」、「余子句選」がある。
感想
 1025句は多い。先行する萩原麦草「麦嵐」の千に余るらしい句集、西東三鬼「変身」の1073句と、俳壇の風潮であったか、読む者の身になってもらいたい。
 内面には強靭な精神の緊張を持しつつ、その表現においては平明を守ろうとした、とされる。
 「ホトトギス」より戦後の社会性俳句、根源俳句への流れから、逸れた句境にあった。
 没後の「余子句抄」を含め、3句集をもって、生涯の句業を俯瞰できる事は、いたく優れた事である。

引用
 以下に5句を引用する。季節立てより1句ずつ。
門松の片寄り立つやビルの前
早春やまだ立つ波の斧に似て
返り梅雨して灯台の霧笛かな
月光をわたしはじめぬ波の皺
小十戸を海辺に並めて冬野かな
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写真ACの「童話キャラクター」より、「一寸法師」のイラスト1枚。





 角川書店「増補 現代俳句大系」第12巻(1982年・刊)より、2番目の句集、岩田昌寿「地の塩」を読み了える。
 今月10日の記事、
米沢吾亦紅「童顔」に次ぐ。
 「地の塩」は、1959年、竹頭社・刊。石田波郷・序、372句、後記を収める。
 岩田昌寿(いわた・しょうじゅ、1920年~1965年)は、9歳の時に母と死別(それ以前に父と生別していたらしい)。
 1938年に肺結核で清瀬の療養所に入り、俳句を投句、1940年より石田波郷の「鶴」に投句し頭角を現す。
 1949年に喀血、療養所に入るも精神錯乱状態になり桜ヶ丘保養院に移る。このとき連作「秋夜変」を成す。
 退院後、日雇い労務者となり、1959年に本句集を出版するも作句少なくなり、1965年、某精神病院で孤独死。ノートやメモは、残っていなかった。
 以下に5句を引く。
夕風の枇杷もぐ蹠仰ぎけり
合歓を見て残す言葉は何時言はむ
本売つて燕くるまで食ひつなぐ
囀や生涯日雇かも知れず
日雇のひと日父の忌夏痩せぬ
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写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。



 角川書店「増補 現代俳句大系」第11巻(1982年・刊)より、最後の句集、久保田万太郎「流寓抄」を読み了える。
 このブログでは、先の4月18日の記事にアップした、
星野立子「実生」に継ぐ。
 この第11巻には、2句集の間に、林原耒井(はやしばら・らいせい、1887年~1975年)の第1句集「蜩」が入る。しかし大正13年~昭和33年の1293句と、いきなり古稀までの半生を語られるようで、読みおおせられなかった。
 久保田万太郎(くぼた・まんたろう、1889年~1963年)の「流寓抄(るぐうしょう)」は、1958年、文芸春秋新社・刊。60ページにわたる自伝が付されたが、この本では採っていない。
 戦後の句集「春燈抄」「冬三日月」からの抄出に、その後の自選句、合わせて1089句を収める。
 生前最後の句集で、没後に「流寓抄以後」「青みどろ」がある。
 前書の多い、生活(作家としてを含めて)俳句であり、親しみやすい。また老境に入って、周囲の文人・俳優の訃を悼む句が、とても多い。
 数の多い句集なので、以下に7句を引く。
懐手あたまを刈つて来たばかり
短命のためしのこゝに春日かな(武田麟太郎を悼む。)
みゆるときみえわかぬとき星余寒
また人の惜まれて死ぬ寒さかな(横光利一の訃に接す)
さしかけの葭簀うれしき端居かな(三日ほどおちつきて鎌倉にあり。)
しぐるるやそれからそれと用のふえ
まゆ玉や一度こじれし夫婦仲
(昭和三十一年を迎ふ。)
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写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。





 角川書店「増補 現代俳句大系」第11巻(1982年・刊)より、7番めの句集、百合山羽公「故園」を読みおえる。
 先行する
相馬遷子「山国」は、今月21日の記事にアップした。
 原著は、1956年、故園刊行世話人会・刊。487句、後記を収める。
 百合山羽公(ゆりやま・うこう、1904年~1991年)は、初め「ホトトギス」に入るが、水原秋桜子と共に去り、「馬酔木」第1期同人となる。
 第1句集「春園」(1935年・刊)に次ぐ「故園」では、1931年~1949年の「帰雁抄」、1950年~1952年の「鬼灯抄」、1953年~1956年の「海鳴抄」の、3章を立てる。
 敗戦の1945年は、第1章に紛れ込んでいる。衝撃と苦しみは、後に来たのか。
 すべて「鬼灯抄」「海鳴抄」より、5句を引く。
鬼灯よ父はとしどし弱き父
水を汲み火を焚く母に春眠す
髪高く結はれて嫁ぐ巣燕に
燕きて家人の声にさゝやけり
綿虫をつれて夕餉にかへりくる

白鳥7
「Pixabay」より、白鳥の1枚。



 角川書店「増補 現代俳句大系」(全15巻)より、第11巻(1982年・刊)の3番めの句集、内藤吐天「鳴海抄」を紹介する。
 先行する角川源義「ロダンの首」は、先の11月17日の
記事(←リンクしてあり)にアップした。
  「鳴海抄(なるみしょう)」の原著は、1956年、近藤書店・刊。
 第4句集、1946年~1955年の632句に後記を付した。
 内藤吐天(ないとう・とてん、1900年~1976年)は、六高時代に詩の研究会を作ったりしたせいか、伝統俳句の大須賀乙字の門下にあったが、この「鳴海抄」の1951年、1952年頃から詩風味を加え、「やや自信のもてる作品が得られるようになった」と後記で述べる。
 敗戦を区切りとして句集を出版し、句集中に句風の変化があった事は、戦後文学の影響や、「第二芸術論」への反発があったのだろう。
 しかし俳句に素人の僕が俳句に求めるのは、江戸時代の最上の成分である俳味(伝統)と、現代風潮(現代性)の格闘であり、詩想へ逃れられては、興味が薄れる。
 以下に、おもに前期より5句を引く。
楽しき世来るか夏蜜柑子と頒ち
立ち去るや泉の音の背にさやか
風花の一ッ時はげし目をつぶる
蛙田に真昼の雨がつきささる
虹を見し森の子供等眠られず
ミカン6
フリー素材サイト「Pixabay」より、蜜柑の1枚。





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