短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、17番目の歌集、「能登」を読み了える。
先の7月29日の記事、同・「雪代」に次ぐ。
概要
原著は、1985年、短歌新聞社・刊。596首、著者・後記を収める。
先の「雪代」より、約3年後の刊行である。
感想
雪国に信仰篤く老いる人々、生地の能登・行、能登の回想等を読んで、重厚である。
またボキャブラリイの偏りをはなれて、新しく詠まれもする。
「凝りたる杉の油のくれなゐは吾が心痛のごとくにかなし」など、客観と主情の合体した作品がある。
戦争に征かなかった事・殺傷をしなかった事を詠う作品があるけれども、事情で回避できたのだろうし、自慢する事ではない。
知的な老人ながら食事を楽しむ様など、親近感の湧く生活があった。
引用
以下に7首を引く。
雪損の杉の被害のただならぬ若狭を伝ふ春は早きに
増殖炉また立つといふ危ふきも貧しきゆゑに人は怖れず
割りて干すその白菜のゆたけきに差す冬の陽もひとときのまか
時化の後なほしらしらと穂に立ちて波はてしなし浜は暮れつつ
まぢかなる郭公のこゑややありて山鳩のこゑ遠くに聞こゆ
戦ひにその子ふたりを失ひし一生(ひとよ)を生きて海に潜きぬ
ひとりなる老のゆふべのはかなきに蜆を食へばその殻の音
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
短歌新聞社
岡部文夫・歌集「雪代」を読む
短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、16番目の歌集「雪代」を読み了える。
今月23日の記事、同・「晩冬」(後)に次ぐ。
概要
歌集「雪代(ゆきしろ)」の原著は、1982年、短歌新聞社・刊。先の「晩冬」の、約2年後の刊行である。
710首、著者・後記を収める。
感想
歌集「晩冬」は、日本歌人クラブ賞を受賞したが、この歌集に授賞はなかった。スイッチバック式で、一旦引いてから先へ進む道もあるだろう。
世の歌人には、シンデレラ・ガールのように栄誉の階段を駆け上がる人も、彼のように営々と詠んで晩年に評価される人もいるのだ。
彼は北陸の風土と人々を描くと決意していたが、やや暗い面に執したかに見える。これは北陸にほとんどの生涯を送っている、僕の見方、負け惜しみだろうか。
引用
以下に7首を引く。
着る物に野焼の炎移りしと老の死はいつの時も痛まし
黄塵の日と雨の日とこもごもに北ぐにの春定まるらしも
この村を征(い)でて果てにし兵の墓型(かた)を一つにみな新しき
その後も言ひて憎みき親(ちか)き者屑藷すらに分たざりしを
事つひにあからさまなる現実の怖れとなりぬ言はないことか(敦賀原電事故)
塩鯖を笊に商ふ媼らよ老いて病むなきまた業(ごふ)ならむ
春鯖の網を繕ふ老の頸(くび)いづれ辛酸の皺美しき
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
今月23日の記事、同・「晩冬」(後)に次ぐ。
概要
歌集「雪代(ゆきしろ)」の原著は、1982年、短歌新聞社・刊。先の「晩冬」の、約2年後の刊行である。
710首、著者・後記を収める。
感想
歌集「晩冬」は、日本歌人クラブ賞を受賞したが、この歌集に授賞はなかった。スイッチバック式で、一旦引いてから先へ進む道もあるだろう。
世の歌人には、シンデレラ・ガールのように栄誉の階段を駆け上がる人も、彼のように営々と詠んで晩年に評価される人もいるのだ。
彼は北陸の風土と人々を描くと決意していたが、やや暗い面に執したかに見える。これは北陸にほとんどの生涯を送っている、僕の見方、負け惜しみだろうか。
引用
以下に7首を引く。
着る物に野焼の炎移りしと老の死はいつの時も痛まし
黄塵の日と雨の日とこもごもに北ぐにの春定まるらしも
この村を征(い)でて果てにし兵の墓型(かた)を一つにみな新しき
その後も言ひて憎みき親(ちか)き者屑藷すらに分たざりしを
事つひにあからさまなる現実の怖れとなりぬ言はないことか(敦賀原電事故)
塩鯖を笊に商ふ媼らよ老いて病むなきまた業(ごふ)ならむ
春鯖の網を繕ふ老の頸(くび)いづれ辛酸の皺美しき
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
岡部文夫・歌集「晩冬」を読む(後)
短歌新聞社「岡部文夫全歌集」より、15番目の歌集「晩冬」の(後)を紹介する。
今月19日の記事、同・(前)に次ぐ。大冊なので、前・後の2回に分けて紹介する。
概要
この歌集の概要は、大略を上記リンクに記したので、ご参照ください。
今回は、後半509ページ(「涌井」)より537ページ(後記)に至る、29ページ(1ページ20行)を読み了える。
感想
北陸の自然、貧に耐える人々、自分の職を辞した老い、また老妻等を描いた、感銘深い作品が多い。
職業的に近い立場だから、共感が多いのではないかと恐れる。学生や現職の人には、感銘薄いのではないか、というような。
主情と客観の対立を越え、歌境も深まったのだろう。しかし後記では、「これらの作品は私の念念からはまだまだ遠い」と書きつけ、努力の意を述べている。
引用
以下に7首を引く。
柊の花しづかなる冬の日にゆきて少女(をとめ)の汝(なれ)を見にしか(婚後五十年)
煮てもなほ口を開かぬ蜆など朝より老の忿りを誘ふ
妻の眼のなほたしかにて日野川の水の寒鮒を作りくれたり
割る海胆(うに)の上にそれきりなりしとふ老を羨(とも)しむ今日の葬りに
雪の上に杉より落ちて刺さりたる短き垂氷(たるひ)数限りなし
この夜を荒れつつ雪の降りたきか海の上にして雷のはげしさ
残る者は水に虹鱒を養ひぬ清滝川の上流にして
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
今月19日の記事、同・(前)に次ぐ。大冊なので、前・後の2回に分けて紹介する。
概要
この歌集の概要は、大略を上記リンクに記したので、ご参照ください。
今回は、後半509ページ(「涌井」)より537ページ(後記)に至る、29ページ(1ページ20行)を読み了える。
感想
北陸の自然、貧に耐える人々、自分の職を辞した老い、また老妻等を描いた、感銘深い作品が多い。
職業的に近い立場だから、共感が多いのではないかと恐れる。学生や現職の人には、感銘薄いのではないか、というような。
主情と客観の対立を越え、歌境も深まったのだろう。しかし後記では、「これらの作品は私の念念からはまだまだ遠い」と書きつけ、努力の意を述べている。
引用
以下に7首を引く。
柊の花しづかなる冬の日にゆきて少女(をとめ)の汝(なれ)を見にしか(婚後五十年)
煮てもなほ口を開かぬ蜆など朝より老の忿りを誘ふ
妻の眼のなほたしかにて日野川の水の寒鮒を作りくれたり
割る海胆(うに)の上にそれきりなりしとふ老を羨(とも)しむ今日の葬りに
雪の上に杉より落ちて刺さりたる短き垂氷(たるひ)数限りなし
この夜を荒れつつ雪の降りたきか海の上にして雷のはげしさ
残る者は水に虹鱒を養ひぬ清滝川の上流にして
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
岡部文夫・歌集「晩冬」を読む(前)
短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、15番目の歌集「晩冬」の(前)をアップする。
今月11日の記事、同「石の上の霜」に次ぐ。
概要
原著は、1980年、短歌新聞社・刊。1058首、著者・後記を収める。
1058首と大冊なので、前・後の2回に分けて紹介する。
前歌集より、約3年後の刊行である。
「晩冬」の歌集編は、全歌集の473ページ~534ページの62ページを占める(1ページ20行)ので、(前)では半分の509ページまで、「北陸風土記(五)」のしまいまでを取り上げる。
感想
1977年、第2の職場「安田製作所」(専売公社を1967年・定年)を退職し、後記で歌人は「従前よりは幾らか作歌に専念することができた」と述べている。
読んでみて、この歌集には力感があり、自己の老い、北陸の風土を見詰めて、深みがある。
果せるかな、この歌集で初の歌壇の賞「第8回日本歌人クラブ賞」を受賞した。後の「短歌研究賞」、「迢空賞」につながる。
引用
以下に7首を引く。
かなしみの清まるまでに年経しと雪の夜にしてひとり思ひつ
有る物の限りに包(くる)む媼らの寒き朝朝鯵を振り来る
原発の温排水にこの海の海鼠の類も絶えたるらしき
鯖の骨口を刺すまでに老いたるか独りに言ひてひとりさびしむ
ひとときの今の眠りにありありと亡き母を見き機(はた)を織りゐき
道の上に見つつ羨む豌豆の吾が作るより花ゆたけきを
高高に負ひて商ふ笊売の媼よ冬の日は短きに
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
今月11日の記事、同「石の上の霜」に次ぐ。
概要
原著は、1980年、短歌新聞社・刊。1058首、著者・後記を収める。
1058首と大冊なので、前・後の2回に分けて紹介する。
前歌集より、約3年後の刊行である。
「晩冬」の歌集編は、全歌集の473ページ~534ページの62ページを占める(1ページ20行)ので、(前)では半分の509ページまで、「北陸風土記(五)」のしまいまでを取り上げる。
感想
1977年、第2の職場「安田製作所」(専売公社を1967年・定年)を退職し、後記で歌人は「従前よりは幾らか作歌に専念することができた」と述べている。
読んでみて、この歌集には力感があり、自己の老い、北陸の風土を見詰めて、深みがある。
果せるかな、この歌集で初の歌壇の賞「第8回日本歌人クラブ賞」を受賞した。後の「短歌研究賞」、「迢空賞」につながる。
引用
以下に7首を引く。
かなしみの清まるまでに年経しと雪の夜にしてひとり思ひつ
有る物の限りに包(くる)む媼らの寒き朝朝鯵を振り来る
原発の温排水にこの海の海鼠の類も絶えたるらしき
鯖の骨口を刺すまでに老いたるか独りに言ひてひとりさびしむ
ひとときの今の眠りにありありと亡き母を見き機(はた)を織りゐき
道の上に見つつ羨む豌豆の吾が作るより花ゆたけきを
高高に負ひて商ふ笊売の媼よ冬の日は短きに
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
岡部文夫・歌集「石の上の霜」を読む
短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、14番目の歌集「石の上の霜」を読み了える。
今月6日の記事、同「青柚集」に次ぐ。
概要
「石の上の霜(いしのうへのしも)」は、1977年、短歌新聞社・刊。683首、著者・後記を収める。
「青柚集」より、約2年後の刊行である。
感想
後記にあるように、「(北陸の)人間や風土が前集よりも幾らか深切に歌はれている」と言える。
貧しい村の、老いた知識人として、村人の相談相手になり、また農業の教えを受ける。
魚介を背に行商の媼たち、海女に、冬の副業に勤しむ媼たちを、とくにあわれ深く詠んでいる。
また新しく、原発に潤う村をも詠む。
引用
以下に7首を引く。
報いなきことに手を貸す隣ならず境の雪は吾が除(のぞ)くべし
鯵を鯖を振りて商ふ媼たち生くるに怯むなき媼たち
原電に潤ふ海の村といへ心けはしく荒(すさ)びゆくらし
隠すなき貧を互みに貶めて一つ入江には一つ村あり
洗濯機廻したるままに来しと言ふ媼の今朝の訴へは何
こぞりたつ浅葱は君の呉れしもの並びて萌ゆる韮に記憶なし
隠元の支への篠は今少し高く結へよの媼に倣(なら)ふ
写真ACより、「アールデコパターン」の1枚。
今月6日の記事、同「青柚集」に次ぐ。
概要
「石の上の霜(いしのうへのしも)」は、1977年、短歌新聞社・刊。683首、著者・後記を収める。
「青柚集」より、約2年後の刊行である。
感想
後記にあるように、「(北陸の)人間や風土が前集よりも幾らか深切に歌はれている」と言える。
貧しい村の、老いた知識人として、村人の相談相手になり、また農業の教えを受ける。
魚介を背に行商の媼たち、海女に、冬の副業に勤しむ媼たちを、とくにあわれ深く詠んでいる。
また新しく、原発に潤う村をも詠む。
引用
以下に7首を引く。
報いなきことに手を貸す隣ならず境の雪は吾が除(のぞ)くべし
鯵を鯖を振りて商ふ媼たち生くるに怯むなき媼たち
原電に潤ふ海の村といへ心けはしく荒(すさ)びゆくらし
隠すなき貧を互みに貶めて一つ入江には一つ村あり
洗濯機廻したるままに来しと言ふ媼の今朝の訴へは何
こぞりたつ浅葱は君の呉れしもの並びて萌ゆる韮に記憶なし
隠元の支への篠は今少し高く結へよの媼に倣(なら)ふ
写真ACより、「アールデコパターン」の1枚。
岡部文夫・歌集「青柚集」を読む
短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、13番目の歌集、「青柚集」を読み了える。
先の6月25日の記事、同「石上」に次ぐ。
概要
「青柚集(せいゆしふ)」は、1975年、短歌新聞社・刊。537首、著者・後記を収める。
「石上」が1952年・刊なので、その間に約23年が過ぎている。
1954年、歌集「氷見」の歌稿をまとめたが、生前に刊行される事はなく、没後2年の1992年、主宰していた「海潮」会員らによって刊行された。
戦後7年の間に、10歌集(合同歌集を除く)を刊行していたペースからは、異常である。
1956年、福井県小浜市に転任し、1967年、日本専売公社を定年となるも、福井県を去る事はなかった。1969年には「青垣」を去っている。
このあと、1977年、1980年、1985年、1986年と歌集を刊行し、勢いを取り戻している。
作歌上の迷いがあったのだろうか。
感想
初め1952年の歌はわずか5首と少なく、後に次第に歌数が増えて行く。
1953年の章「雪天」では、「すがすがと」「しらしらと」「さはさはと」と副詞の多用が目立ち、1種の後退だろう。
「雪国の人々のかなしみ」を歌い上げたいと念じた、生活詠が深く冴えてくる。
引用
以下に7首を引く。
夜の火に冬鯖の塩したたりてこのときのまの鋭き炎
誤ちて熟柿の種を呑みこみしわが妻の顔を真面(まとも)に見たる
踏み倒す者なき村の交はりに醤油を貸し蒲団の綿を借る
着る物の裾をからげて道を来る皆媼にて海の草を負ふ
蓄へ方塩にか糠にか吾が知らず余る水蕗を惜しみて残す
この海の養殖真鯛赤くすと人はさまざまに試むるらし
鯵か鯖か聞きてゆふべを待つたのし用なき老の花茣蓙の上
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
先の6月25日の記事、同「石上」に次ぐ。
概要
「青柚集(せいゆしふ)」は、1975年、短歌新聞社・刊。537首、著者・後記を収める。
「石上」が1952年・刊なので、その間に約23年が過ぎている。
1954年、歌集「氷見」の歌稿をまとめたが、生前に刊行される事はなく、没後2年の1992年、主宰していた「海潮」会員らによって刊行された。
戦後7年の間に、10歌集(合同歌集を除く)を刊行していたペースからは、異常である。
1956年、福井県小浜市に転任し、1967年、日本専売公社を定年となるも、福井県を去る事はなかった。1969年には「青垣」を去っている。
このあと、1977年、1980年、1985年、1986年と歌集を刊行し、勢いを取り戻している。
作歌上の迷いがあったのだろうか。
感想
初め1952年の歌はわずか5首と少なく、後に次第に歌数が増えて行く。
1953年の章「雪天」では、「すがすがと」「しらしらと」「さはさはと」と副詞の多用が目立ち、1種の後退だろう。
「雪国の人々のかなしみ」を歌い上げたいと念じた、生活詠が深く冴えてくる。
引用
以下に7首を引く。
夜の火に冬鯖の塩したたりてこのときのまの鋭き炎
誤ちて熟柿の種を呑みこみしわが妻の顔を真面(まとも)に見たる
踏み倒す者なき村の交はりに醤油を貸し蒲団の綿を借る
着る物の裾をからげて道を来る皆媼にて海の草を負ふ
蓄へ方塩にか糠にか吾が知らず余る水蕗を惜しみて残す
この海の養殖真鯛赤くすと人はさまざまに試むるらし
鯵か鯖か聞きてゆふべを待つたのし用なき老の花茣蓙の上
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
岡部文夫・歌集「石上」を読む
短歌新聞社「岡部文夫全歌集」(2008年・刊)より、12番目の歌集「石上(せきじやう)」を読み了える。
今月9日の記事、同「雪炎」に次ぐ。
概要
原著は、1952年、海潮短歌会・刊。388首、あとがき「小記」を収める。
「海潮」は、岡部文夫が1948年、創刊・主宰した歌誌である。なお「青垣」には所属したまま。
前歌集「雪炎」より、約3年後の刊行である。
またこのあと、1976年の「青柚集」まで、約23年間、歌集の刊行がない。続々と歌集を刊行していたが、この長い停止が何に拠るのか、明らかではない。
感想
これまでにも述べたが、「青垣」の主張にも拠るけれども、主情か客観か、徹していない。ある意味、作歌しやすい立場だが、それでは緊張が足りなくなるようだ。あとがきで「自力で前方を手さぐりに」「暗澹として皆目行手のわからないこともあつた」と述べている。
この迷い、自分は歌人として大成するのかという疑いが、23年間、歌集が途絶えた原因だろうか。
職の定まらぬ長男、嫁ぐ娘、耐えてきた妻、等を描く家庭詠に親しみが持てる。
引用
以下に7首を引用する。
かたはらに歎くをきけば外勤の吾が娘(こ)の唇(くち)の冬荒るるらし
うつしみの踵の皮を磨(す)らむため軽石ひとつ買ひたく思ふ
麻袋(またい)の上の短きまどろみを果敢(はか)なと思へしばしばも襲(く)る
口の上(へ)の黒子(ほくろ)したしきに寄るわれをつひにかなしく見分けたまはず(哲久の母)
みるみるに雪にうづまる石ひとつこの夏に寄り秋に寄りにき
吾が手相をみてをりしかどくすくすと笑ひて妻の立ちあがりたり
土方となり行方(ゆくへ)のわかぬ長男を吾が罪としも思ひ歎きつ
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。
今月9日の記事、同「雪炎」に次ぐ。
概要
原著は、1952年、海潮短歌会・刊。388首、あとがき「小記」を収める。
「海潮」は、岡部文夫が1948年、創刊・主宰した歌誌である。なお「青垣」には所属したまま。
前歌集「雪炎」より、約3年後の刊行である。
またこのあと、1976年の「青柚集」まで、約23年間、歌集の刊行がない。続々と歌集を刊行していたが、この長い停止が何に拠るのか、明らかではない。
感想
これまでにも述べたが、「青垣」の主張にも拠るけれども、主情か客観か、徹していない。ある意味、作歌しやすい立場だが、それでは緊張が足りなくなるようだ。あとがきで「自力で前方を手さぐりに」「暗澹として皆目行手のわからないこともあつた」と述べている。
この迷い、自分は歌人として大成するのかという疑いが、23年間、歌集が途絶えた原因だろうか。
職の定まらぬ長男、嫁ぐ娘、耐えてきた妻、等を描く家庭詠に親しみが持てる。
引用
以下に7首を引用する。
かたはらに歎くをきけば外勤の吾が娘(こ)の唇(くち)の冬荒るるらし
うつしみの踵の皮を磨(す)らむため軽石ひとつ買ひたく思ふ
麻袋(またい)の上の短きまどろみを果敢(はか)なと思へしばしばも襲(く)る
口の上(へ)の黒子(ほくろ)したしきに寄るわれをつひにかなしく見分けたまはず(哲久の母)
みるみるに雪にうづまる石ひとつこの夏に寄り秋に寄りにき
吾が手相をみてをりしかどくすくすと笑ひて妻の立ちあがりたり
土方となり行方(ゆくへ)のわかぬ長男を吾が罪としも思ひ歎きつ
写真ACより、「アールデコ・パターン」の1枚。