風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

 このブログを運営している新サスケは、2017年10月17日付けでのAmazonのKindle本、第4詩集「詩集 日々のソネット」(縦書き)の発行に続き、第5詩集「改訂版 ソネット詩集 光る波」(縦書き)を、2018年5月31日、Kindleストアにて発行しました。著者名は、柴田哲夫(僕のペンネームの1つ)です。
 2011年10月1日・刊の紙本「ソネット詩集 光る波」に、数十ヶ所の加筆をし、編集しました。
 販売ページは、Amazonの「Kindleストア」カテゴリーで、「柴田哲夫 ソネット 光る波」と入力して検索してくだされば、即で見つけられます。右サイドバーのバナーよりも着けます。
 kindle版で540円(税込み)、kindle unlimited版も発行しています。

短歌研究会B

 4月24日(第4火曜日)の午後1時より、喫茶店で短歌研究会B第23回が持たれた。同・A第44回は、今月19日に持たれた。
 2月2日の記事、
短歌研究会B第22回以来の、研究会Bである。
 喫茶店に早目に来て待つこと数分、現われたのはTさんである。Mさんはご家族の入院で、遅れるか、来れないかも知れないとのこと。
 僕にも不安があって、外出用の眼鏡とパソコン用の眼鏡を、取り違えて使っていた。視力0・1以下の僕が、ブルーライト・カットだけのパソコン用眼鏡で、よく車を運転したものだ。デザインが似ていて、以前にも何度か間違えており、気を付けたい。
 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 今回は、歌集「日本挽歌」(1953年)の「地の塩」の章(113ページ)より。
 初めの「竹群に朝の百舌鳴き」の結句「冬の塩」の字足らずは、中句の「いのち深し」(自分と百舌の命だろう)の詠嘆と相俟って感銘深い。
 「蠟燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代(よ)過ぎぬ」は、名歌として有名である。Tさんが、宮柊二には、蠟燭の歌が幾つかある、停電の多かった時代としても、と指摘する。
 第6歌集「多く夜の歌」(1961年)に入る。
 「灰皿」の章(117ページ)の「竹群(たかむら)の空青青と音なくて寂しき春の時間ぞ長き」に、僕は掛り結びと空き時間を、Tさんは春愁を指摘した。
 「雛祭り」の章では、「はうらつにたのしく酔へば」の歌を、Tさんが好むと述べた。
 20分くらい遅れて、Mさん登場。
 「竹群(たかむら)に春の疾風(はやかぜ)うちとよみ」の歌は、なぜ「はやち」と読ませなかったか、わからない。
 「北海道羈旅」の章では、「春楡の午(ひる)の林に入り来ればこゑもの憂くて郭公鳥啼く」をMさんが好みだと述べ、彼女の歌風に通うと納得した。
 午後1時45分頃だったが、僕の眼鏡とMさんのご家族のこともあり、研究会を打ち切った。
 次の研究会の日程を決め、散会した。
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写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。


 先の1月31日(水曜日)の午前9時半より、喫茶店にメンバー3人が集まって、短歌研究会B第22回を持った。僕は寝坊して、5分遅れた。
 
同・第21回は、昨年12月に欠けたので、11月25日以来である。
 飲み物を注文のあと、歌誌・歌集の貸し借り、返却をし、研究会に入った。
 短歌研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 今回は第5歌集「日本挽歌」(原著は1953年、創元社・刊、306首)より、「藪下道」の章(109ページ)よりである。
 「夢々惨々(ぼうぼうさんさん)として未来あり」の「夢々惨々」が、広辞苑にもなく、3人にわからない。前例があるのだろう。
 「新聞配達と/して働きき/戦争に兵たりき/今宵四十歳の/矮(ひく)き影あり」の上句は「新聞配達として/働きき戦争に/兵たりき」と切るのかも知れないが、いずれも異様な詠み方である。
 「みづからを偽るまいとおもふとき身体ほてりて夜の闇にをり」は、誰にも偽りはあるのに、自分に厳しい歌人だった、と意見が一致した。
 「新潟の浜」の章。「砂しけば臀(いしき)冷えきつ夏さきの波しづかなる日本海のおと」は、「砂しけば」が「草を藉く」の例があるが、「砂の上に座る」を略して、また「臀」が「臀部」を略して、上手である。「夏さき」は「春先」などと同じく、初夏だろうか。「日本海」と大きく詠んでいることを、Mさんが感心した。
 「夏日幻想」の節(111ページ)より。「銃を負ひ/背嚢を負ひ/たちまちに/苦しわが幻/影あゆみ去る」、「壇上に/反軍備論/すすみつつ/不思議なる聴/衆の沈黙あり」と読むのだろうか。前衛短歌の波があったとしても、大胆な詠みぶりである。
 「水面」の章に入り、初句「曇(くもり)映る」は、「雲映る」にしてしまいがちだが、拘りがあったのだろうとTさんの発言があった。

 結句「わが貧長し」があり、夫婦、病む老人たち、未婚の弟妹、子供たちを抱えて、たいへんだったのだろう。
 113ページの2首でもって、研究会を了え、次回の日程を決めて、10時45分頃に散会した。
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写真ACより、「ファンタジー」のイラスト1枚。



 10月27日の午前9時半、メンバー3人が喫茶店の隅で、短歌研究会B第20回を持った。
 同・第19回は、先の9月28日の記事にアップした。
 まず歌誌・歌集の貸し借り、返却をして、しばらく話したあと研究会に入った。
 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 前回で歌集「晩夏」を了えていたので、第5歌集「日本挽歌」(1953年、創元社・刊。306首)に入る。
 主な話題となった所を挙げる。
「雨となる午後」の章
 「悔しけど」の歌、「永遠の諦めも現実に随ふと為(せ)ん」の「も」は他の何を指すか、Tさんが問う。僕は「生活も」だろうと思う、と述べた。
 「つらなめて」の歌の、初句「つらなめて」は、「列並めて」の漢字にあたる。また結句の「揺ぐ」は、「ゆらぐ」と読むのだろう。
 「旅にきて豊年まつりのうたきけり歓ぶこゑの身に沁むものを」の歌は、宮柊二が書店の子で、東京に出奔して、農業の経験が無い上での、感慨だろう。

「孤独」の章
 「冬ふかむひかりとおもふ道の上に俄にあらき凹凸見えて」の「ひかり」は、街灯の光か、とTさんが問う。僕は日光だと思っていた。「俄に…見えて」から、当時まだ少なかったであろう、街灯の光だろうという事になった。
 結句の「凹凸」は(でこぼこ)ではなく、(おうとつ)と読むのだろう、と僕とMさんの意見が一致した。
 この所104ページ、10時半頃で僕が腰痛のため、ギブアップした。次の短歌研究会Aの日程を決め、40分頃に散会した。
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写真ACの「童話キャラクター」の「桃太郎」より、きび団子のイラスト1枚。



 

 7月30日(第5日曜日)の朝9時半に、メンバー3人がある喫茶店の1隅に集まり、短歌研究会B第17回を持った。
 
同・第16回は、今月1日の記事にアップした。
 研究会の前に、少し早く来た僕は、かき氷のレモンを食べていた。やって来た2人は、アイス菓子とアイスコーヒーを摂った。歌誌の貸し借り、返却をする。
 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の、読み込みである。
 前回に続き、歌集「晩夏」の「砂光る」の章(86ページ)の初めより。
 1首目の「重ねこし両手(もろて)を解きて椅子を立つ判決放送の終りたるゆゑ」の初句、なぜ「重ねゐし」ではないのかと、Tさんが問う。(「判決放送」は、1948年の「極東軍事裁判所」のA級戦犯への判決である)。もっともな問いであるけれど、時間が長く、作者の思い入れが強かったのだろう。
 次の「廿五名の運命をききし日の夕べ暫く静かにひとり居りたし」の下句は、他人とは違う感慨があり、それに耐えている思い、と僕は読んだ。物思いを整理するため、という意見があった。
 「砂光る」の初めは、思いをはっきり言う事が憚られるため、「回り持って言う」点があると、Mさんは述べた。
 「をさな子二人」の節では、「吸殻を灰にうづめぬ平(なら)されて」の歌は、判決放送より平静を取り戻したかに思える。
 「するどき音」の章では、「禱るがに秘めて耐へこし一つごと妻居らぬ部屋に座りてゐたり」の秘め事は、従軍に関わる事、大事な事だろう、と推測した。
 「わが胸に住む兇暴の鴉らが西に東に漂泊(さまよ)ひて鳴く」、「翼(はね)搏ちて荒寥と空に鳴きあぐるまがつ鳥鴉を胸ふかく飼ふ」の2首に、他のメンバー2人が共感を示した。
 この章を了え(89ページ)、10時半過ぎながら、研究会を仕舞った。次の研究会の日程を決め、散会した。
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写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。


 昨日(6月30日、金曜日)にメンバー3人が、朝9時半に喫茶店の1隅に集まって、短歌研究会B第16回を持った。
 
同・第15回は、先の6月4日の記事にアップした。
 短歌研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の読み込みである。
 前回に続き、歌集「晩夏」の「白梅紅梅」の章の、4首目から(81ページ)。
 「屈竭(くつかつ)のこころ放ちて仰ぐらく」という上句の「屈竭」がわからない。「竭」の字は漢和辞典で探せるが、意味がよくわからなく、「渇に通じる」だろうか。思いが渇き屈している意か。
 「梅の園尽きむとしつつ草の上(へ)に羞ぢらふごとく白(しろ)散りて来つ」の「羞ぢらふごとく」の比喩は、白い小さい清楚な花の散りようを指すだろう。
 「うつうつと汗ばむ吾が身」という上句の「うつうつと」は、「うとうとと」の意味である。
 「昨夜(よべ)ふかく酒に乱れて帰りこしわれに喚(わめ)きし妻は何者」は、奥さんの英子さんが夫の深酒に喚いた事はない、と証言しており、宮柊二も「詩的真実」と認めていたらしい。
 「おもおもと空の曇りの退(ひ)きし門(かど)向日葵に夕べあきつ集る」の初句の「おもおもと」は辞典になかったが、「重々しく」の意で、「退きし」に掛かるのだろう。
 上句が「雨ののちのぼれる月の照れれども」の「照れれども」の後の「れ」は、完了の助動詞「り」の已然形である。
 1時間が過ぎた10時半頃、Mさんが僕の腰痛の具合を訊いてくれ、切り上げる事にした。貸し借りの本を返し、Tさんが先輩の歌集を、Mさんが収穫したたくさんの李を、僕に下さった。僕はタブレットより、最近の花の写真と、Amazon Kindleに収めた歌集を、説明した。
 次の会の日程を決め、10時45分頃に散会した。
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写真ACより、「お花屋さん」のイラスト1枚。


 6月2日(金曜日)に、5月30日・予定だった短歌研究会B第15回を、僕の都合で日程をずらして持った。
 
同・第14回は、先の4月29日の記事にアップしてある。
 喫茶店の1隅に、メンバー3人が、朝9時半に集まった。
  僕がTさんに借りていた歌集を返し、ツイッターの話などのあと、研究会に入る。
 同・Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」(宮英子・高野公彦・編)の、読み込みである。
 歌集「小紺珠」より、「小現実」の章の「赤い燠」の節(76ページ)より入る。
 1首目「「もっと苦しめ」といふ声ぞする」の苦しみの源は、従軍体験と作歌の困難を、重ねているのだろう。
 「袖無し着たり」の幼子は、当時として豊かだったか貧しかったか、今の僕たちにはわからない。
 「黄と仄青(うすあを)のけむり行く」の「仄」は淡ではなく薄でもない、拘りがあったのだろう。焚き火の煙を詠むのは、他の歌にある「小現実を歌にせむかな」の実践である。
 「いくばくかわれの心の傾斜して日当る坂を登りつつあり」の「傾斜」を、僕は崩れ、後退かと取ったが、内向きになっている、「坂」との縁だろう、という意見だった。また、宮柊二は結句が上手い、という感想が出て、改めて意識した事だった。
 「わが国人(くにびと)の」の句があって、日本人を指すのだろうが、郷里の人を指すか、よくわからなかった。
 「たたかひの中に育ちし子のまへに多く黙しておくれゆく父」の、「子」は自分、「父」は実父を指すのだろう。
 歌集「晩夏」(1951年・刊)に入り、3首進んだ(81ページ)所で、僕が腰痛でギブアップした。喫茶店のベンチ椅子が固い。
 予定は11時までの所、10時半に、次の予定を決めて散会した。
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写真ACより、フラワーアレンジメントの1枚。


 昨日(11月13日、日曜日)の午後1時半より、僕と女性2人のメンバー3人で、短歌研究会B第9回を、某喫茶店の1隅で持った。
 同・第8回の
記事(←リンクしてあり)は、先の10月7日付けでアップした。
 研究会Bは、岩波文庫「宮柊二歌集」の読み込みである。
 今回は主に第二次大戦に従軍中の作品を集めた「山西省」より、昭和17年(1942年)の作品、5ページを読んだ。
 「…静かなる夜半なり雪に砲声きこゆ」は、「静か」と「砲声」の逆説が、従軍の極度の緊張を表わしている。
 「滹沱河(こだがわ)の水の響の空を打ち秋は来にけり大き石の影」は、純粋に叙景歌として成立すると、3人の感想が一致した。
 「馬家圪垜(ばかきつだ)」は、地名であろうと推測した。
 「鞍部」は、「山の稜線のくぼんだ所」とわかる。僕とMさんの電子辞書に、同じ広辞苑第6版電子辞書版が入っているので、すぐ一致した解が出る。
 照る麦の穂を見て笑いがこみあげるのは、平和と戦争のギャップから来るようだ。
 「もの悲しく小鼓と鉦を打つきこゆ」の上の句は、葬儀の様らしいと推測した。
 昭和17年分の最終の「耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず」は字余りの1首として有名で、思いは確かには判らないが、戦争の非人間性を怒る歌だろう。
 他にも様々に語り合った。
 2時40分頃に研究会が済んだが、次回の研究会Aの日程を決め、支払いで僕がTさんに面倒を掛け、3時頃に散会した。
菊6
フリー素材サイト「Pixabay」より、菊の1枚。




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