先の6月25日の記事、第2回「蝸牛忌」余話で書いた通り、同人詩誌の代表K・久璋さんから頂いた、「角」第50号を詩作品中心に読み了える。
今年2月12日の記事、同・第48号を読む以来の記事となる。同・第49号は入手しなかったらしい。
T・常光「コラージュ」
福島県の原発事故のその後を描いて、結行「心の奥底にデブリが落ちる」と深い作品である。しかし「森の奥の神を探る」とあるように、神に心を寄せる者しか、深い作品は書けないのだろうか。
T・百代子「心残り」
近所の寝たっきりの妻とその老いた夫の許に、「週に三回、三年」温かい惣菜を運び続けるが、ついに妻が亡くなる。「これだけしか出来なかったことが/心残りで、もう少し何かをするべきだった」と書くが、僕は充分だと思う。彼女の、信念に基ずく優しさはわかる。
N・六「語り歌」
祖父母が孫に、明るい未来を説く図である。しかしその子世代のことは描かれない。仕事が定まらない子、結婚しない子、過労の子を抱える、還暦過ぎの老人は、身近に多い。アラフォー世代に、未来がないようではないか。
提言
詩誌の第50号に至ったことをお祝いすると共に、次の提言をする。散文に重きを置くことと、裏表紙に目次を置くことは、止めたら如何だろうか。詩誌の品格に関わると思うのだけれども。