風の庫

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詩論

 思潮社の現代詩文庫181「続続・辻征夫詩集」より、散文作品の「ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像」抄を読み了える。
 先行する「未刊詩篇」は、先の6月26日の記事にアップした。


 この本では、未刊詩篇と散文作品の間に、俳句「貨物船俳句抄」があるが、句集に就いては今年2月23日の記事にアップしたので、ここでは述べない。


 「ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像」から、はエッセイの「バートルビ」、エッセイ風の小説「自転車」、ホラー風の小説「砂場」、エッセイの「マフラー」、「坂道の男」5編を収める。
 「バートルビ」は、映画のシナリオの執筆を誘われた所から始まる。作者の切ない失恋を、映画「バートルビ」に絡めて描く。メルヴィルの「書記バートルビ」を原作とするが、僕は代表作「白鯨」を途中放棄したので、メルヴィルは嫌いである。「坂道」は、坂道を目を瞑って自転車で降りる秒数を、毎日伸ばす(先は国道と交差する)、ホラーめいたストーリーである。
 「砂場」は、後方でホラーとなる。小説を試みた詩人の、琢磨がわかる。「マフラー」は、「詩が元々下手だったのに、改めて下手になったと実感する。もっと下手になろうと思ったりする」という詩論を交えた、1編である。「坂道の男」は、泥酔して記憶にない事を女将に言われ、知人の直子さんから、覚えのない女優との道中を見たと言われ、父からは新聞の美談の写真の男と間違われ、自分にそっくりの男がいる、あるいは「分身」のいるような、思いにさせられる。僕がエッセイとした散文にも、フィクションの入っている可能性は大である。

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写真ACより、「雨の日」のイラスト1枚。



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 思潮社の現代詩文庫78「辻征夫詩集」より、「評論・自伝」5篇を読み了える。
 先行する「未刊詩篇と短編1篇」は、先の2月21日の記事にアップした。


 評論の初めは、「曲芸師の棲り木」と題して、17歳で詩と出会い、20歳で詩を書けなくなり、20代半ばで再び詩を書けるようになるまでを述べる。
 詩との出会いが、作品に没入するより、詩論(リルケの「若き詩人への手紙」、ランボオ・書簡、萩原朔太郎「詩の原理」)であった事は不幸だった。リルケの「若き詩人への手紙」は後年、僕も読んでみたが納得できなかった。ランボオ全詩集(付・書簡)を読んだけれども、当時に感銘したのは「酔いどれ舟」1編のみだった。朔太郎は高校生時代に詩集を読んで、影響を受けた作品を嗤われたけれども、詩論を読む暇はなかった。
 もっとも僕の詩との出会いは、三一書房の高校生新書、小海永二「現代の詩 新しい詩への招待」だった。戦後詩の解説書だけれども、豊富な例を挙げていた。僕は詩人であるとも、詩人に成りたいとも、思わなかった。英和辞典にminor poet(二流詩人)の語を見つけて喜んでいた。
 ランボオが書簡のなかで、なぜ「詩人になり、見者たらんとし、そのため放蕩に身を持ち崩してやろう」と書くのか分からない。僕は学校を中退したあと、人並みの生活を営むにも努力の要る身となった。美と純粋に憧れた辻征夫は詩を書けなくなり、ブランクのあと復活した時には、「しばらくは物の表面にとどまれ、それ以上のことはいまだ私には耐えかねるから、」と自らに言い聞かせなければならなかった。
 このあと、詩論の「瓦礫の構造」「もう一つの「六〇年代詩」」「窓からの眺め」、自伝の「自伝風ないくつか」(5章)を読んだが、紹介するスペースも気力もないので、ご勘弁願う。ただ佐佐木幸綱の言葉で、「「われ」が「われわれ」を突破しろということですよ、同時代において。」には違和感がある。「われわれ」が「われ」「われ」に解体して行く時の崩壊熱は凄まじいものがあった。自らを語り過ぎた。
樹木
写真ACより、「樹木」のイラスト1枚。


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 土曜美術社・日本現代詩文庫27「関根弘詩集」より、巻末の詩論2編、解説1編を読み了える。
 今月14日の記事、同・詩集「奇態な一歩」を読む、に次ぐ。リンクより、以前の関根弘の詩集の記事へ遡り得る。
詩論「リルケからカフカへ」
 戦前にリルケ(特に「マルテの手記」)を好んだ関根弘が、戦後、カフカに傾いた事情について、以下のように書いている。「戦争を通過したあとで、わたしは、当然のことのようにカフカ党になっていた。リルケがたてこもった社会的無関心の塔からいやでもひきずり出されて、カフカ的にいえば、孤立無援のたたかいを余儀なくされたからであろう」。安部公房にもカフカを勧めたという。
講演「小熊秀雄」
 詩賞「小熊秀雄賞」授賞式での講演である。年次はわからない。たった1度、少年時代に小熊秀雄に会っただけ、という関根弘が、外郭から中心に攻め入るように、13ページに渉って描いている。
 小熊秀雄の絶筆の詩「刺身」、堀田昇一の小説「自由ヶ丘パルテノン」、小野蓮司の詩「苔」から引きながら、戦前プロレタリア文学運動の末期に出発して、抵抗詩「刺身」を書くに至ったさまを描き尽くす。
 室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」に匹敵する描きぶりである。

「関根弘詩集解説」中川敏
 「今時アヴァンギャルドは演劇を除いてはアウト・オブ・デイトである」と、やんわりと関根弘の「リアリズムとアヴァンギャルドの統一」を批判している。

 最後に年譜について。関根弘は、東京に生まれ、小学校卒業後、勤めに入り、住み込み店員も経験している。従軍を免れて、戦後、職を転々とし、文筆家として立った。40歳で結婚、息子、娘を得る。
 詩誌「列島」で、手八丁口八丁と言われる大活躍(「解説」より)をしながら、没後、全集どころか全詩集さえ発行されていないようだ。以て悼むべきである。
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写真ACより、「キッチン・グッズ」のイラスト1枚。


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 1昨日、7月19日の記事にアップした、荒川洋治「詩とことば」を読み了える。
 岩波現代文庫、2016年6月・4刷(2012年6月・1刷)。書き下ろし・2004年12月・刊。
 第1章「詩のかたち」の初めで「詩のかたちをしたものは奇異なものかもしれない。反射的に遠ざけたいもの、気分を損ねるものかもしれない」と書いて、詩の不遇の源を探る。「行分け」「(行の分け方を、書く)その人が決めること」「並べる」「メモの世界」「くりかえし」「リズム」「詩に、飛躍はない」「散文は「異常な」ものである」の章で、実際の詩に即しながら、詩の特質の解明と、擁護を試みる。
 第2章「出会い」では、石牟礼道子「川祭り」で始まり、蔵原伸二郎「昨日の影像」などのあまり知られない詩人、草野心平、飯島耕一でもあまり知られない作品、との出会いと、探索を述べる。
 第3章「詩を生きる」では、詩が熱かった時の様子を振り返り、作品の構成の分析をする。廣末保の芭蕉論の1節「詩が詩として自立しはじめるとき、それは同時に反「詩」的な契機をふくみこまねばならなかったのである」が痛く刺さる。
 最終・第4章「これからのことば」では、大きな事件のあとの垂れ流しの詩や歌を「詩の被災」と切り捨てる一方、今のこの社会のおかしさの源の1つに「情報だけの本だったり、明日役に立つだけの本だったり、時流に合わせるものだったり、…」と批判して、文学書、中でも詩集・詩の本の読書を推す。「歴史」では、「新体詩抄」から1980年代までの詩人を挙げ、それ以来は新人不在だとする。また新しい人、地域の人にも、細かく心を向ける。
 「あとがき」、「岩波現代文庫版のあとがき」、「参考文献一覧」を付して、1冊を収めている。
 単行本が文庫本になり、版を重ねる、優れた詩論である。



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 昨日の記事、「荒川洋治氏・受賞記念講演会」の始まる前、会場の多目的ホールの隅で、荒川洋治氏の著作が数種類、販売されていた。
 僕は記念の意を含めて、乏しい小遣いから、岩波現代文庫「詩とことば」(2016年4刷、860円+税)を買った。
 彼の詩集は、「全詩集」(思潮社)を含めて、何冊か読んだが、評論は読んでいなかった。

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 講演のあと、サイン会があったので、僕も列に並んだ。
 おばさんたちが、自分の手帳を差し出していく中、氏は苦虫を噛み潰す表情でサインした。
 僕の1冊を、職員が手に取って氏の前へ置いた時も、同じ表情だった。しかも「本には日付を入れませんから」と年月日を省略されてしまった。もっとも彼が、高校文芸部の1年先輩だった縁で、1声をかけてくださった。
 下の写真は、そのサインである。おこがましいかも知れないが、ブログにアップした。
 本を読み始めると、文庫本で版を重ねる詩論集であり、優れている。難解な評論の言葉も、難解な思想の言葉も、共に使わず、根本からの現代詩論である。僕の選択は、正解だったようだ。






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