風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

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出会い

 思潮社の現代詩文庫78「辻征夫詩集」より、「評論・自伝」5篇を読み了える。
 先行する「未刊詩篇と短編1篇」は、先の2月21日の記事にアップした。


 評論の初めは、「曲芸師の棲り木」と題して、17歳で詩と出会い、20歳で詩を書けなくなり、20代半ばで再び詩を書けるようになるまでを述べる。
 詩との出会いが、作品に没入するより、詩論(リルケの「若き詩人への手紙」、ランボオ・書簡、萩原朔太郎「詩の原理」)であった事は不幸だった。リルケの「若き詩人への手紙」は後年、僕も読んでみたが納得できなかった。ランボオ全詩集(付・書簡)を読んだけれども、当時に感銘したのは「酔いどれ舟」1編のみだった。朔太郎は高校生時代に詩集を読んで、影響を受けた作品を嗤われたけれども、詩論を読む暇はなかった。
 もっとも僕の詩との出会いは、三一書房の高校生新書、小海永二「現代の詩 新しい詩への招待」だった。戦後詩の解説書だけれども、豊富な例を挙げていた。僕は詩人であるとも、詩人に成りたいとも、思わなかった。英和辞典にminor poet(二流詩人)の語を見つけて喜んでいた。
 ランボオが書簡のなかで、なぜ「詩人になり、見者たらんとし、そのため放蕩に身を持ち崩してやろう」と書くのか分からない。僕は学校を中退したあと、人並みの生活を営むにも努力の要る身となった。美と純粋に憧れた辻征夫は詩を書けなくなり、ブランクのあと復活した時には、「しばらくは物の表面にとどまれ、それ以上のことはいまだ私には耐えかねるから、」と自らに言い聞かせなければならなかった。
 このあと、詩論の「瓦礫の構造」「もう一つの「六〇年代詩」」「窓からの眺め」、自伝の「自伝風ないくつか」(5章)を読んだが、紹介するスペースも気力もないので、ご勘弁願う。ただ佐佐木幸綱の言葉で、「「われ」が「われわれ」を突破しろということですよ、同時代において。」には違和感がある。「われわれ」が「われ」「われ」に解体して行く時の崩壊熱は凄まじいものがあった。自らを語り過ぎた。
樹木
写真ACより、「樹木」のイラスト1枚。


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 福井県俳句作家協会「年刊句集 福井県 第57集」より、6回めの紹介をする。
 今月8日の記事、同・(5)に次ぐ。
概要
 僕はこのアンソロジーとの出会いを、幸運だったと思う。身近な、短詩型との出会いである。同じ県内で、信仰があるも無いも、真宗王国の風土であり、山・田畑・海に豊かである(原発銀座を問題視する人もいる)。また昨年1年間の作品であり、世調を映している。
 毎年3月後半、協会の事務局長方へ葉書を出すと、郵便振替の伝票を付して、1冊を送ってくださる。
感想
 今回は、鯖丹地区(鯖江市、越前町、池田町)の13ページ、26名の260句を読んだ事になる。
 新しい句材を求める事は重要だ。プラス面だけでなく、マイナス面(過疎化・等)を含めて。高齢化を映す吟に感慨がある。
 また古くからの句材を、新しく吟じ直す法もある。
 僕は旧かな・古典文法の短歌を24年間続けた(今は新かな、現代文法で詠んでいる)ので、分かるのだけれども、稀に用字・文法に誤りがあって、避けられなかったかと少し残念である。
引用

 以下に5句を引く。
星流る遠き父母姉弟(T・晶子)
天仰ぎ地を這ふ仕種獅子頭(O・真由美)
直播きの植田のそよぎまだ疎ら(K・節子)
夏草の怒涛や誰も住まぬ家(H・幸美)
父になき齢を生きて年の酒(K・和典)

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写真ACより、「キッチン・グッズ」のイラスト1枚。




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 先の1月8日の歌集の記事に続き、邑書林「セレクション歌人3 江戸雪集」より、「散文」の章を読む。
 歌論の「佐竹彌生論」と寺山修司論「誤解をおそれないひと」、それにNTT DoCoMoで配信していた短いエッセイ「短歌のある日々」より11編を収める。
佐竹彌生論
 「…ひとりの歌人と出会った。というより、ひどく孤独で清廉な「歌」に出会ったという方がよいだろうか。」と、短歌との出会いらしい事を描く。佐竹彌生のストイックで死を想う等の歌を幾つも引きながら、魅力を説く。自分の感性に珍しく近いものを感じたのだろう。
 僕は俗な世過ぎの、1瞬の聖を捉えて歌を作る方法を取って来た(現場労働でも、遠い通院でも、ネット漬けのリタイア後でも)ので、ここに引かれる佐竹彌生の歌には、僕は惹かれない。
 人は誰でも、他人には意外な、出会いを持つものだ。
誤解をおそれないひと
 寺山修司の歌論と短歌への、共感を述べている。寺山修司の言葉「私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力が望ましいのだ。」に、「喜んで賛同したし、今も変わらない。けれど、それと同時に、「あるがままの世界」或いは「私」を越えて創造する難しさにどうしようもなくなってしまうときがある。」と嘆く。短歌の普遍性は、定型と歴史(の新しい1歩)が、おのずと齎すと考えるのは、甘いだろうか。
短歌のある日々

 気さくなエッセイで、マンション暮らしの恐怖、少年達への共感、ユーモア、しんみり、とエッセイの要素に事欠かない。エッセイのせいか、一般向けのせいか、子供が大きくなって来た(3歳~4歳)せいか、ここには安らぎがある。
 この本にはこのあと、藤原龍一郎の江戸雪・論「咲くやこの花」、略歴、あとがき、初句索引を収める。続く歌集を、僕の読む日が来るだろうか。
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写真ACより、「おもてなし」のイラスト1枚。



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