風の庫

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悲惨

 思潮社の現代詩文庫181「続続・辻征夫詩集」より、詩集「萌えいづる若葉に対峙して」を読み了える。
 先行する、詩集補遺5冊分を読む、は今月16日の記事にアップした。


 「萌えいづる若葉に対峙して」は、生前最後の詩集である。「対峙」は広辞苑第7版・電子辞書版によると、「向き合って立つこと」となる。この詩集は全編が収められているが、優れた詩集であり、また最後の現代詩文庫・収録であり、カットする必要がなかったのだろう。
 第Ⅰ部の表題作「萌えいづる若葉に対峙して」は、林の若葉に窓内より対峙し、詩人は昨日に自転車でコンクリートに落下し、顔や足にけがをしながらも、ボールペンを握って白紙に向かっている。末尾は「血まみれの抒情詩人がここにいて/抒情詩人はみんな血まみれえと/ほがらかに歌っているのです」と、詩人の悲惨と栄光を歌うようだ。
 「おじさん狩り」「チェーホフ詩篇」は、複数の小詩を集めた、連作仕様である。詩人が傾いていた、小説執筆を思わせる。
 「玉虫」は散文詩で、出征した父が帰還して、母と出会う感動的な場面を描く。彼の詩の理解に、一助となるだろう。
 「風の名前」は、部屋を通り抜ける風に名前を付けて、会話している。病む老抒情詩人らしい。「薬缶」は、優しいが故に頼りない人たち(自分を含めて)のストーリーである。
 「蟻の涙」では、詩人は「きみのなかに残っているにちがいない/ちいさな無垢をわたしは信ずる」と訴えてやまない。
 「東武伊勢崎線」は、出会った知日派外国人を、地名を連ねながら描いている。
 第Ⅱ部では、「アリス」「トム・ソーヤー」「ロビンソン・クルーソー」など、童話の主人公を中心とする、10編である。第Ⅲ部は、散文詩「ワイキキのシューティングクラブ」で銃の実弾射撃(試し撃ち)の経験を描く1編のみである。内心に武闘派的な所のある詩人が、念願の1つを果たしたのだろう。
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写真ACより、「建築」のアイコン1枚。




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 筑摩書房の「現代日本文学全集 補巻8 上林曉集」より、5編め「四国路」を読み了える。
 先行する「現世図絵」は、今月13日の記事にアップした。


 「四国路」は、1944年(昭和19年)の秋、9年ぶりに四国へ帰郷する物語である。不便な戦争末期で、帰路の困難や、郷土ひとの親切さが描かれる。1946年4月に文芸春秋へ発表の作品だが、しかしこれまで戦争末期を描く短編小説ばかりである。
 石坂洋次郎の「青い山脈」(1947年・刊)とまで言わなくても、永井龍男の「風ふたたび」(1951年・朝日新聞・連載)くらいには、時世に乗って、戦後を明るく描いても良かったのではないか、と考える。なぜ敗戦の直前・直後の暗い部分に執着したかわからない。短編私小説の作家として、動じないものが内にあったのだろうか。
 短編小説家の常として、新作の発表に追われる。「風致区」(1946年1月)、「きやうだい夫婦」(同・2月)、「嶺光書房」(同・1月)、「四国路」(同・4月)発表と、毎月1編のように発表した。
 「四国路」で400字原稿用紙、約29枚である。短編小説の稿料は1枚あたり低かったのだろうか。短編小説の名手と謳われた三浦哲郎でさえ、長編小説へ挑戦し、引き下がった。(自分でそう書いた)。
 短編小説の作家が、ポオ、フィッツジェラルド、O・ヘンリなど(戦前日本の短編私小説作家は知らない)悲惨な晩年だった。ストレスが多く、酒に頼ったからだろうか。
 上林曉(かんばやし・あかつき、1902年~1980年)は、1962年に2度めの脳出血で半身不随となりながら、実妹の介護と口述筆記で作家生活を続けられた。正岡子規と妹・律の場合とたぐえられ、文学の生涯を全うした。
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 写真ACより、「ビジネス」のイラスト1枚。





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 思潮社の現代詩文庫155「続・辻征夫詩集」より、3番めの「鶯」から、を読み了える。
 先行する「かぜのひきかた」から、は今月9日の記事にアップした。


 「鶯」は全16編である。「こどもとさむらいの16編」と副題があるからだ。うち9編を、この文庫は抄出している。
 冒頭の「突然の別れの日に」は、「知らない子が/うちにきて/玄関にたっている」と始まる。母はその子を迎え入れ、僕は声が出ない。僕はこのうちを出て、ある日別の子供になって、よそのうちの玄関に立つ宿命を知る。とても暗示的な詩である。小市民の良い子は、取り替え可能なのか。僕ではない、他の子が産まれても良かったのか。あるいは早いながら、自分の死を意識するようでもある。
 「鶯」は散文詩で、逆の立場のようだ。「十歳になろうかという女の子が一人、ぼくの家の玄関に立っていて、」と始まる。女の子は僕を非難するけれども、それは僕の幼年時代の仲間で、昔を忘れ損なっている。「あんまり大きなかなしみや苦悩はぼくには向かないから、」と困っている。そこへ妻が現れ、他に誰もいない風に振舞う。女の子は、幼年時代の純粋と悲惨を、象徴するようだ。あるいは少年少女時代に、敗戦の世相急変についてゆけなかった子かも知れない。
 「かみそり」「ちるはなびら」「どぶ」が、ひらがなばかりの作品で、僕に引っ掛かる。
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写真ACより、「ガーデニング」のイラスト1枚。


 

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 土曜美術社出版販売の新・日本現代詩文庫150「山田清吉詩集」より、5番めの「だんだんたんぼ」(抄)を読み了える。
 先行する同「田んぼ」全篇は、今月3日の記事にアップした。



 「だんだんたんぼ」は、2004年、紫陽社・刊。27編を抄出する。
 「あのとき」は、軍靴に踏みにじられた女性、戦後パンパンとなった女性を、半世紀を過ぎながら、詩に化することによって、幻想的に昇華することで魂鎮めしている。
 「ちょっとまて」は、父親を亡くした孫たちに、米を運ぼうとして、警察に捕まる媼を描く。「でものう 天子様にあげた命二ツ/息子二人をここに連れて来てくださらんか/そうすれぁこの米でも/己
(うら)の命でも置いていきますげの」と、媼に成り代わって方言で歌うことで、戦争の悲惨と、戦後も相変わらずの官憲の愚をあばいて、絶唱である。
 「人間であることが嫌になる今日此の頃」では、自衛隊によって憲法第九条を空文化し、海外派遣に至る頃を描いて、スローガン的ながら痛烈である。
 自分の葬儀を想定した作品は、これまでの詩集と同じく混ざっている。
 「雨の中の稲刈り」「足踏み脱穀機」「百姓の手」が、農民の苦しみを訥々と作品化した。

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写真ACより、「カーメンテナンス」のイラスト1枚。


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 谷崎精二・個人全訳「ポオ全集」(春秋社)第2巻より、3回めの紹介をする。
 同(2)は、今月2日の記事にアップした。


 リンクより、関連過去記事へ遡れる。

 今回は、「奇態な天使」「使いきった男」「息の紛失」、3編を読んだ。3編で43ページである。
 「奇態な天使」はビヤ樽の胴、小樽の足でできた羽根のない、自称・天使に、酒酔いの「私」が振り回される話である。天使を含め、一切の信仰を僕は持たないので、内容には言及しない。酔っ払いの戯れ言めく(悪い冗談とも書いた)のが残念である。
 「使いきった男」は、蛮族と戦って体のほとんどが、人工品になった(本体は小さな束のみである)、名誉陸軍少将を描く。人工器官の発展、あるいはiPS細胞の発見を予告したような面は認める。
 「息の紛失」は、息を失くした男が不運の果てに、生きたまま埋葬されるが、掘り出される話である。「生きたまま葬られる」というポオの1テーマである。

 短編小説作家は、ポオも、O・ヘンリも、フィッツジェラルド(長編小説もある)も、悲惨な最期を迎えているが、何故だろう。印税の安い短編小説を乱作するからだろうか。短編小説の名手と呼ばれた三浦哲郎は、それでも長編小説も多く手掛けた。バランスを採ったのだろうか。村上春樹は短編、中編、長編、翻訳、エッセイとバランスを採って書き続け、成功している。

樽のイラスト
写真ACより、「樽」のイラスト1枚。


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 同人詩誌「角(つの)」第47号を、ほぼ読み了える。
 今月20日の記事、
「頂いた本など9冊より(1)4冊」で紹介した内の1冊である。頂いた事情などは、リンクをご参照ください。
 
同・46号の感想は、今年4月24日の記事にアップした。
概要
 2018年8月20日、「角の会」・刊。
 B5判、上質紙、50ページ。詩は1段組み、見開き2ページに1編、と贅沢な詩誌である。散文は2段組み。
 詩は14名15編、散文は6名7編を収める。
感想
 K・久璋さんの「羽化」では、毛虫が道を這っていると、車を避けると書く。生命を、万物を大事にする事は賛成だ。しかし人間が「類」的存在(人類として)として進歩して来た事を思うと、人間の尊厳を大事にしたい。
 T・百代子さんの「壊れる」では、「コンクリートの階段から落ちて/脳からの指令が壊れてしまった」人の、「いや 喉は乾いている/口がどこにあるかわからん!」状態を引いて、人間らしく生き得ない悲惨を描く。
 散文は、19ページを占めるが、詩人らしくない(美文を書けというのではない)文章で、総じて宜しくないようだ。
引用

 H・秋穂さんの「セレナーデ」が、言葉で言い表しにくい事へ、手を伸ばしているようで、優れている。
 11行の内、4行を引く。

  セレナーデ

  (前略)
庭の飛石が啼いて
花を摘む風の音は記憶の中を走っている
そして雨降りはそのまなざしのなかでもえつき
くずれた堤防の影で貌を上げる
  (後略)




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