渡辺本爾さんの詩集「時間の船に浮かぶ」を読み了える。
受贈の時のことは、今月10日の記事にアップした。

2020年11月21日、能登印刷出版部・刊。*印に仕切られた3章に31編を収める。
彼は長く教職にあり、8年間、市の教育長を務めた。また県詩人懇話会の初代・代表・岡崎純さんが身を引いたあと、人望を以って2代めの代表を長く務めている。
題名に不審があり、「時間の(水面に)船を浮かべる」が、文法的には正しいかと思うが、詩に集中していない僕の僻目かとも思う。
巻頭の詩「雪のおわり」に「旅立ってきたまちは/白い世界の果てにあり/二度ともどることはないだろう」のフレーズがあり、人生への覚悟を示す。また「行くぞ/としぜんに言葉がうまれ」には、僕が早朝に病理再検査のためS病院へ向かう時、何度も「行くぞ」と胸中に呟いて、元気を貰った。
逝く際の母を描いて「二月抄」では、「母のいのちが舞いはじめ/ぼくらはその静かな/母の舞台を仰ぎ見ていた」と美しく昇華した。福井には、若くして母を亡くし、母恋を綴る故・広部英一さん、渡辺本爾さん、小鍛治徳夫さんの、詩人の系譜があるようだ。
「言葉はあるか」では、「言葉を忘れることは/心を失うこと」と始まるが、言葉のないところに心が始まると、僕は考える。
表題作「時間の船に浮かぶ」では、「立ちつくした父の時間は/既に失われて/同じところをどうどう巡りしている」と、認知症の老父を描く。
「さむらいのように」の結末は、「腹の底からさむらいのように生きたいと思う」と締める。ルサンチマンの僕には、ない志である。
「陶酔境」では、高山の湯に浸る設定で、「身にまとった日常を下界に捨てて/おのが骸骨を/今ごしごし洗っているところであるが」と自己浄化を描く。
「うゐのおくやま けふこえて」では、「知らないところで/時代が動く鐘が鳴っていた」としても、まだ歩み続けようとする。
平成30年間の31編と厳選であり、人生後半に入った豊かな果実である。


受贈の時のことは、今月10日の記事にアップした。

2020年11月21日、能登印刷出版部・刊。*印に仕切られた3章に31編を収める。
彼は長く教職にあり、8年間、市の教育長を務めた。また県詩人懇話会の初代・代表・岡崎純さんが身を引いたあと、人望を以って2代めの代表を長く務めている。
題名に不審があり、「時間の(水面に)船を浮かべる」が、文法的には正しいかと思うが、詩に集中していない僕の僻目かとも思う。
巻頭の詩「雪のおわり」に「旅立ってきたまちは/白い世界の果てにあり/二度ともどることはないだろう」のフレーズがあり、人生への覚悟を示す。また「行くぞ/としぜんに言葉がうまれ」には、僕が早朝に病理再検査のためS病院へ向かう時、何度も「行くぞ」と胸中に呟いて、元気を貰った。
逝く際の母を描いて「二月抄」では、「母のいのちが舞いはじめ/ぼくらはその静かな/母の舞台を仰ぎ見ていた」と美しく昇華した。福井には、若くして母を亡くし、母恋を綴る故・広部英一さん、渡辺本爾さん、小鍛治徳夫さんの、詩人の系譜があるようだ。
「言葉はあるか」では、「言葉を忘れることは/心を失うこと」と始まるが、言葉のないところに心が始まると、僕は考える。
表題作「時間の船に浮かぶ」では、「立ちつくした父の時間は/既に失われて/同じところをどうどう巡りしている」と、認知症の老父を描く。
「さむらいのように」の結末は、「腹の底からさむらいのように生きたいと思う」と締める。ルサンチマンの僕には、ない志である。
「陶酔境」では、高山の湯に浸る設定で、「身にまとった日常を下界に捨てて/おのが骸骨を/今ごしごし洗っているところであるが」と自己浄化を描く。
「うゐのおくやま けふこえて」では、「知らないところで/時代が動く鐘が鳴っていた」としても、まだ歩み続けようとする。
平成30年間の31編と厳選であり、人生後半に入った豊かな果実である。

