風の庫

読んだ本、買った本、トピックスを紹介します。純文学系読書・中心です。

Kindle本の第1歌集「雉子の来る庭」をKDPしました。右サイドバーのアソシエイト・バナーよりか、AmazonのKindleストアで「柴田哲夫 雉子の来る庭」で検索して、購入画面へ行けます。Kindle価格:250円か、Kindle Unlimitedで、お買い求めくださるよう、お願いします。

現代詩

総会・全景 (2)
 4月28日(第4日曜日)の午後1時半より、県教育センターの1室で、福井県詩人懇話会・第23回総会が持たれた。
 詩の催しの記事としては、今年2月8日の県詩人懇話会「第39回会員の詩書を祝う会」に参加、以来である。リンクより関連過去記事へ遡れる。

 定刻にN・千代子さんの司会で、会が始まった。
 総会に先立ち、詩人の以倉絋平氏(日本現代詩人会前会長)の講演があり、K・久璋さんの講師・紹介のあと、講演「現代詩と私」があった。6枚のプリントが配られており、江藤淳、吉本隆明の文から説き起こし、子規・虚子の俳句・写生文まで遡り、主観の入る短歌から、幻想詩の始まりを読む。井上靖「地中海」や上村肇「みずうみ」の詩より、感動・感銘より幻想が生まれると説く。新川和江、中江俊夫の詩、柳瀬尚紀の感想、西脇順三郎の詩論を引いて、幻想詩の価値を示す。しかし<修辞的こだわり>だけになった日本現代詩を、考え直す時期だと批判的である。年刊アンソロジー「詩集ふくい」を読んで、「更に創意工夫を!」と福井の詩人を励まして、降壇した。


 総会は、W・元爾・代表の挨拶(写真の場面)の後、議長選出をして始まった。懇話会は1985年に発足したが、途中より2年に1回の総会になったので、回数が中途半端である。
 第17期(2017年度、2018年度)の活動経過報告、同・収支決算が、多少の意見はありながら承認された。第18期(2019年度、2020年度)の活動計画案、収支予算、懇話会役員案も承認された。役員は、昇任2名、新任3名、W・元爾代表を含め留任11名、退任1名だった。
 定刻4時をやや過ぎて、閉会した。参加者は、途中退席の方も含めて、26名だった。
 福井県詩人懇話会の活動が盛んになり、福井の詩が盛んになる事を願う。


このエントリーをはてなブックマークに追加

 花神社「茨木のり子全詩集」(2013年・2刷)より、「韓国現代詩選」(1990年・花神社・刊)の、最終、4回めの紹介をする。
 
同・(3)は、先の1月11日の記事にアップした。
 今回は、黄東奎(ファンドンギュ)の4編、呉圭原(オギュウォン)の4編、崔華國(チェファグク)の4編、いずれも詩集初出を読みおえた。
 黄東奎の「小型百済佛像」では、「彼らはどこへ行くのか/どこに そしてわれわれは?/あなたはほほえむ/微笑 劇薬瓶の指示文を読みとるように/私はあなたの微笑を覗きこむ」と、社会の暗い部分も見て来た小仏像の心を思い遣る。
 呉圭原の「突然 間違って生きているという思いが」では、「どうせ間違って生きたのなら ひきつづき間違って生きる方法も方法であるよと/悪魔のような夜がわたしをたぶらかす」と締めて、詩人らしからぬ、1部の人の生き方を示している。
 崔華國は在日50年にわたる(当時)詩人であるが、第1詩集はハングルで書かれた。「美しき仇(ウォンス)」では、韓国の気象情報のラジオを聴いて、「美しき仇 ソウルの娘っ子よ//波立つ一すじの海峡を越えて/凶悪な老虎の乾ききった狂気のさまに/…」と、鋭い懐郷の思いを述べる。
 前回で、選ぶ詩人、作品に偏りがあると書いたが、彼女の詩人紹介では「モダニズム」、僕にはシュールリアリズムと取れる作品も翻訳していて、前言を撤回する。シュールリアリズムは、産業社会の狂気を表わしている。
 ただしこの詩集の「あとがき」で訳者は、「独断や偏見を恐れずに、一九八〇年代の、それぞれタイプの異なる、自分の気に入った詩だけを集めてみたいと。…すぐれた詩人でも、…すれちがってしまったということも多いに違いない」と、率直に述べている。
焚き火2
「写真AC」より、焚き火の1枚。


このエントリーをはてなブックマークに追加

 花神社「茨木のり子全詩集」(2013年2刷)の、「韓国現代詩選」(1990年、花神社・刊)より、3回めの紹介をする。
 今月5日の記事、
同(2)に次ぐ。
 今回は、河鐘五(ハジョンオ)の4編、黄明杰(ファンミョンゴル)の4編、金汝貞(キムヨジョン)の4編を、読みおえた。
 河鐘五の「屋台」は屋台の飲み屋を引く中年夫婦を、「ミドリマチ」では遊郭で苦しむ小娘を、描いて哀れだが、原詩集の出版時期にも拠るのか、既視感がある。「忘憂里で暮らしながら」では、父親と子(5歳)の会話があって、ようやくサラリーマン家庭を思わせるが、後半で強引に朝鮮統一の願いに向かう。
 金汝貞の「水鶏のことば」では、「くいなは/いろんな思い いろんな感覚 すべて/…/「トゥムプ トゥムプ」 きれいな鳴き声」と謳って、詩の原点を思わせる。「いのちの芯」では、「愛の病気を骨髄に封じ込めて/…/なんて悪性のはやりやまい/それでも女たちは争ってその病気を患ったのね/その病気の芯が/いのちの芯でもあったのだから」と謳い上げる。自分の達成や成功、つまり自己実現を男に託したのなら、哀れな話である。
 訳者の性格に拠るのだろうが、翻訳する詩人、詩に偏りがあるようだ。焚き火1
「写真AC」より、焚き火の1枚。


このエントリーをはてなブックマークに追加

 花神社「茨木のり子全詩集」(2013年2刷)より、彼女の翻訳した「韓国現代詩選」(1990年、花神社・刊)の2回めの紹介をする。
 同・(1)は、昨年12月25日の
記事(←リンクしてあり)にアップした。
 今回、僕が読んだ詩は、洪允淑(ホンユンスク)の6編、李海仁(イヘイン)の6編、申庚林(シンギョンリム)の5編である。
 洪允淑は専門女性詩人、李海仁は修道院の尼僧、申庚林は出版社の編集者である。老いてゆく女性、貧しい農民などを描いて、ある意味で純粋で美しい。
 でもなぜ、現役サラリーマンが詩を書かないのだろう。詩集が何十万部も売れる国では、詩人はプロばかりなのだろうか。現代日本にサラリーマン詩人はおり、歌人はおり、俳人もいるだろう。女性を含めて。
 同人誌やネットで詩を、結社を含めて短詩を、発表する事が出来るのは、優れた事態だろう。
 本旨より外れたが、この詩集を読んで、思う事の1つである。
焚き火3
フリー素材サイト「Pixabay」より、焚き火の1枚。




このエントリーをはてなブックマークに追加

 花神社「茨木のり子全詩集」(2013年2刷)より、彼女が翻訳した「韓国現代詩選」の1回めの紹介をする。
 今月14日の
記事(←リンクしてあり)、「『スクラップブック』から」(3)に次ぐ。
 原著は、1990年、花神社・刊。
 年譜に拠ると、彼女は1976年(50歳)より朝鮮語を習い始め、1987年から3年間、季刊詩誌「花神」に韓国現代詩の翻訳を連載し、それらを中心に62編(詩集・約50冊から)を、まとめて刊行した。翌1991年、読売文学賞を受賞した。
 「あとがき」には、「隣国のひとびとの詩を好むこと尋常ならず」「ベストセラーになる詩集も多く、三十万部くらいは軽くいってしまうらしい」と嘆賞している。
 今回は、姜恩喬(カンウンギョ)の4編、金芝河(キムジハ)の5編、趙炳華(チョウビョンファ)の12編(おもに短詩)を読んだ。
 韓国は、大衆運動によって、政権を倒せる国だ。国民が幾ら頑張っても駄目な日本とは違う。芸術、囲碁、スポーツ等に対する、思い入れも違うのだろう。
 姜恩喬の「林」での、次々と木が揺れる様も、そのような心理を表わしているように思える。
 金芝河の「五賊」「蜚語」(僕は読んでいない)を、彼女は高く評価しない。「綱わたり」の末部を紹介する。「…見物衆はなろうなら/酷薄無惨がよござんすよ/生きる道なんざとっくの昔に封じられ/撲殺 血へど 何でもござれ 笑わせなくちゃ そうともよ/死とはすばらしいもの/たった一回こっきりの筈だから」。
 訳した詩人の末毎に、短い紹介が載っており、趙炳華は詩集「ルバイヤート」を想わせるが、はるかに暖かいと感じる、と述べられる。「共存の理由 12」の末連3行から。「別れがきたら/忘れることができる程度に/握手しよう」。
暖炉5
フリー素材サイト「Pixabay」より、暖炉の1枚。


このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ